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2019年1月14日 / misotukuri

映画「タイムトラベラー」のループの怪度

 昨夜、映画「タイムトラベラー」(17年、米、ディエゴ・ハリヴィス監督、リンジー・フォンセカ、リンダ・ハミルトン、グレン・モーシャワー、ノア・ビーン他)を見た。
 映画で「タイムトラベラー」という題は今までありそうで無かったのかな?
 と思いつつ、最後までタイムマシンは出てこないし、何がタイムトラベラーかと思った。
 しかし、まあ、リンジー・フォンセカの美貌に免じ、それほど盛り上がりも感じられないドラマを最後まで見た。
 ラストで主人公たちが「私たちはループを抜け出せたけど、今もどこかで無数の私たちがループを繰り返しているのね」という台詞があって、エエーッ?そんなものなのかな?と頭をひねった。
 ストーリーの導入部はだいたい次のとおり。
 <タイムマシンの開発をしていた研究グループのリーダーが試作品を作ったが、過去へは36時間前までしかいけず、記憶喪失の副作用があった。
 彼は、そういうこともあってか、うつ病を煩い、山小屋の車庫で排気ガス自殺してしまった(ようだ)。
 そのショックからようやく立ち直ろうとしていた妻は、ある朝、目覚めると、着ていた服が違っており、怪訝に思っていたところへ電話が掛かってきて、「逃げて」と言われる。
 「5秒後に黒いBMWが来るから、早く逃げるのよ」と。
 そして、そのとおり、黒いBMWがやって来て、危険そうな雰囲気の男が彼女の家に侵入してくる。
 訳がわからないまま、間一髪のところで男をまいて、その声に導かれるままに逃げていると、落ちていた新聞の日付を見てどうやら最後の記憶から一週間経っているらしいことに気がつく。
 そして、彼女の携帯にかかってきた電話の声は、何と彼女の携帯から発信された彼女自身の声だった。
 逃げる途中、怪我をした彼女は、信頼できる会社の同僚に助けを求める。
 彼女は自分の失われた記憶を取り戻すために夫が自殺していた山小屋に会社の同僚と共に向かう。>
 ・・・というよくわからないお話がまだしばらく続くのだが、私もSFファンなので、この後の展開はだいたい予想がつく。 
 これは要するに、彼女たちがタイムループに陥っており、それに気がついた先行する彼女が何とかしてループを逃れようと今の彼女にメッセージを送っているのだな、と。
 映画は、謎をもう一ひねりしているのだが、ようするにそういうこと。
 だが、いろいろ疑問点がある。
 まず、タイムループに陥っているのは、彼女一人のはずで、冒険を共にした同僚は関係なく、ラストの「私たち」という台詞はおかしい。
 時間遡行したのは彼女だけなのだから。
 さらに、ループの始点(つまり、彼女がタイムマシンで過去に旅立った後)で、タイムマシンを破壊しても、ループは消えないと思う。
 彼女がタイムマシンで過去に戻るからループになるので、戻らず自爆すれば、自爆しなくても、破壊するだけでループは消えるはず。
 ただその場合、彼女が少なくとも二人同時に存在することになる。
 この映画では、同じ彼女が同時に二人(あるいはそれ以上)存在している。
 このループの話はややこしいが、果たして先行する彼女がタイムマシンに乗る前に後行する彼女にメッセージを送れるものなのか?
 と言うのも、先行する彼女が時間遡行をしなければ、後行する彼女は存在しないのだから。
 いや、場合によっては、あり得るかもしれないな。
 ループに陥っていると気がついた先行する彼女は、最初のループ時から1週間たった36時間前に時間遡行したのだ。
 それで今の彼女が存在している。
 だが、先行する彼女は、多分、例外的に時間遡行の副作用である記憶喪失にならなかったのだろう。
 だから、今の彼女を作り出すためのループの開始時期を1週間繰り延ばした。
 記憶が空白の1週間の説明がつく。
 いや、先行する彼女の後にも回数は不明だが、少なくとも3回(7日×24時間÷36時間=4.666・・・だから)はループがあり、ことごとくループを抜け出す試みに失敗していたのではないか?
 いや、まてよ・・・・
 うーん、よくわからないな。
 頭が痛くなってきた。
 では。

2019年1月12日 / misotukuri

小説「大名絵師写楽」で斉藤十郎兵衛説は消えたか?-2

 昨日の続きだが、・・・
 今日、Y読書会で、「写楽の会」の人に確認したこと。
 1 錦絵「津田の盆踊り」は存在するか?また、それを蜂須賀重喜候が描いたのか?
  答 そんな物はない。見たことない。
 2 高級な絵の具を使い、市販品とは全くの別物といわれる東洲斎写楽画の落款がないオリジナルの浮世絵なるものは存在するのか?
  答 そんな物は見たことない。
 よって、その2点は作者(野口卓)の創作だろうという話だった。
 写楽=斉藤十郎兵衛説は、「写楽の会」の人のレーゾン・デートル(raison d’etre)となっているから、いささかも揺るぎないみたいだった。
 私は、「写楽=斉藤十郎兵衛説なんてのは、目の前に転がっている証拠みたいなもので、(誰かによって意図的に置かれたものに違いないので)全く信用ならないでしょ」と言ったが、ダメだった。
 まあ、議論できるほど、こちらに知識がないから、議論は避けた。
 彼に言わせれば、写楽に謎は無いということだった。
 なぜなら、斉藤十郎兵衛が写楽だから。
 ミスディレクションなどわからない人にミステリは無理ということがよくわかった。
 斉藤十郎兵衛の実在は証明されているが、その斉藤十郎兵衛が写楽であるという直接的な証拠はまだ出ていない。
 「浮世絵類考」の増補の経緯を調べれば、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也。」という記事は、年代的に一番最後の増補版の記事。(慶長9年、1868年、写楽が消えてから73年後)
 また、「写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」という記事の信憑性を証明どうするのか?
 これが崩れたら、一巻の終わり。
 私は、これが現代なら、やっぱり、お金の流れを追うべきだろうと思う。
 浮世絵出版には大変なお金が掛かるにもかかわらず、一気に最も高価な黒雲母刷りを28枚も出せたという写楽のデビュー当時、誰がそのスポンサーだったのか?
 それも「写楽の会」の人に聞いたら、スポンサーは松平定信だという。
 写楽がデビューしたとき、松平定信は失脚していた。
 しかも、写楽デビュー(寛政6年1791年)の3年前に、松平定信は蔦屋重三郎に財産半分没収という科料を課している。
 それが、失脚(寛政5年7月)したと言え、その翌年に蔦屋重三郎に出資するなど、いくら何でも、ちょっとあり得ない。
 もし、それが事実なら、それには何らかの政治的意図がある。
 たとえば、自分を追放した現政権へのいやがらせとか。
 「そら見ろ、蔦重なんかを甘やかすから、こんなおふざけ(お上の権威をあざ笑うような)が出てくるんだ!」という。
 だが、それは取り調べすればすぐわかることであることと、一時爆発的に人気になったものの、穏やかになった2期以降の人気の凋落によって、空振りに終わった。
 あるいは、その写楽騒動を軟着陸させた知恵者が権力側にいたと言うことか。
 いずれにせよ、それはもはやコンフィデンシャルなお話としか言いようがないことだ。

 

2019年1月11日 / misotukuri

小説「大名絵師写楽」で斉藤十郎兵衛説は消えたか?

 去年の大晦日に「大名絵師写楽」(野口卓著)読了した。
 この小説は、明らかに「写楽 閉じた国の幻」(島田荘司著)の指摘を踏まえた上での作品だと思う。小説の出来映えは、これまで読んだ写楽ものの中でも最高と思うし、この説も非常に説得力がある。しかし、「写楽 閉じた国の幻」でも言ったように、説得力があるからと言って事実とは限らないわけで、その説得力を感じるのが何に起因するのかを考慮しなければならない。
 よくよく考えると、それは浮世絵出版の内幕描写にリアリティを感じるからで、肝心の写楽=蜂須賀重喜候説についてではない。この小説で言う写楽=蜂須賀重喜候説は、
 1 錦絵「津田の盆踊り」の作者は蜂須賀重喜候である
 2 写楽第1期28枚の大首絵は蜂須賀重喜候に描いてもらった
 3 よって、写楽は蜂須賀重喜候である   ということと思う。
 しかし、これは実は、写楽=蜂須賀重喜候と仮定して、その証明を演繹的にしただけ。
 思弁的SFの常套テクニックというか、ようするに、もしも写楽が重喜候だったら?と仮定を置いてから、写楽にまつわる謎を、「ね、これで全て説明がつくでしょう」と言っているに過ぎない。その説明は微に入り細に入り非常に良く出来ていて、なるほどと万人を頷かせるに足る説得力があるのだが、根本的なところで疑問がある。
 それは、前提に客観性が欠けていると言うことだ。
 たとえば、1の命題からして、錦絵「津田の盆踊り」の存在が確認できないこと、またそれを蜂須賀重喜候が描いたということも確認できないことで、真偽いずれも確認できず、命題にもなり得ていない。
 2については、この小説の作者が言っているだけで、それが謎なのだから、客観的な根拠はみつかっていないと言える。2が真であるためには、少なくとも、1の命題が真であり、かつ、錦絵「津田の盆踊り」と写楽第1期28枚大首絵が同じ画家の手になることが証明される必要がある。従って、このままでは、1,2いずれも客観的事実がない以上、3の真偽は判定できない。
 かといって、「だって、正体がバレないよう証拠を跡形も無く消したんだもの、客観性がなくて当然だよ!」というのを安易に是認すれば、何でもありのファンタジーになってしまう。
 伝奇的手法(虚)による歴史小説では、家康替え玉説の最高傑作「影武者 徳川家康」(隆慶一郎著)というのがあるが、これには「駿府政事録」(林羅山著)中の慶長17年8月19日の記述という一つの客観的根拠(実)がある。
 この写楽=重喜候説も、たとえば、重喜候の日記とかにそれを匂わす何らかの記述があれば、虚構をもって歴史的事実を再構築し、歴史の真実に迫ったものだと言えよう。
 だが、この小説のように蔦屋重三郎がすべてを仕組んだと言うことなら、写楽=蜂須賀重喜候でなくとも、歌麿、北斎等でも年代さえ合えばいずれも成り立ち得るわけで、幾ら面白くても、よく出来たお話、歴史ファンタジーにすぎない。
 読者がどういう関心を持って読むかにもよるが、私にはこういう本質的なことを何一つ証明せず、周辺的な浮世絵の制作出版工程や歌舞伎関連の事件の内幕話(実)をリアルに描くことによって、客観性に欠けている写楽=蜂須賀重喜候説(虚)を糊塗しているとしか思えなかった。好意的にとらえると、作者は、客観的に証明できないので、フィクションとして、自分が信じている写楽=重喜候説を組立ててみたのだろうとは思うが。
 ただし、この小説でも、写楽=斉藤十郎兵衛説を一蹴したことは、「写楽の会」の人たちには気の毒だが、評価して良い。
 というのも、いかに、証拠が山ほどあるのを見せられようと、写楽=斉藤十郎兵衛説は、コアなミステリファンなら、まず最初に、直感的にこれは違うだろうと退ける説だと思う。何故なら、写楽=斉藤十郎兵衛説というのは、ミステリで言うところのいわゆるミスディレクション(誤誘導)そのものだからだ。
 ミスディレクションは、奇術師や推理作家だけでなく、詐欺師、兵法家、スポーツ選手、政治家等々、人を欺くことを商売にしている人間の使う基本的なテクニック。フェイントとも言う。これを理解しないことには、厳しい勝負の世界では生きていけない。
 ところが、素人は単純きわまりないフェイントに、それがわかっていてもつい引っかかる。それは玄人には堪えられないほど愉快なことだが、素人には悲しい真実だ。ミスディレクションがない人為的な謎などというものは、まずないと考えて良い。だから、ミステリでは、いかにも怪しい人物というのは真犯人ではない。逆に、いかにも怪しい人物がやっぱり犯人だったというのでは、ミステリにならない。それでは意外性も何もないではないか。そういうのは犯罪小説。
 写楽の謎を考えると、写楽の正体を知る人間で確実なのは結局蔦屋重三郎だけで、彼が仕掛けた謎なら、今のところ完全犯罪。完全犯罪者を襲う最大の誘惑は、時が経つごとに自慢したくて堪らなくなることだが、幸い蔦屋重三郎はそういう自己顕示欲を満たすことなく写楽事件の3年後に病死していることで、謎のまま保たれた。
 写楽の謎は、蔦屋重三郎を看取った人間からヒントを得るべきではないかと思う。
 市販品でない写楽の浮世絵(東洲斎写楽印がないもの)が蜂須賀家からいろいろな大名への付け届けに使われていたと言うことなら、記録や現物があるはずで、そうなれば写楽のスポンサーが蜂須賀家であったことは間違いないだろう。せめて、それだけでも事実として確認できれば、写楽=蜂須賀重喜候説もなかなかの有力説と言えるのだが。
 「白川の清きに魚も住みかねて元の田沼の濁り恋しき」と揶揄された寛政の改革の松平定信自身が滑稽本を書いていながら蔦屋重三郎を処罰したことと、彼を崇拝する汚職役人角倉同心の蔦屋重三郎への憎悪の理由(動機)についてラストの方で述べられているが、要するに「嫉妬」ということだろう。これは「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(得られぬ美女なら殺してしまえ)」の心理と同じで、すぐに有害図書追放した石原慎太郎を思い浮かべた。石原慎太郎も、エロ本やSM本を書いているにもかかわらず、都知事になるとそういうものを有害図書として摘発追放した。これも、「嫉妬」がなせる業だろうか?
 直感的に、そんな簡単なものではないと思う。
 もっとも、それを証明する義理も関心もないが、一方、大衆小説ではこの程度の考察で十分だろうと思う。
 いずれにせよ、「大名絵師写楽」を去年読んだ本のベスト1にした。
 では。

2019年1月9日 / misotukuri

フロイド・メイウェザーVS那須川天心をどう見たか?

 去年の大晦日に見れなかったエキシビションマッチ、フロイド・メイウェザーVS那須川天心の動画をようやく見た。
 結果は、ファンなら知ってのとおり、キックボクサーの那須川天心が1ラウンドで3回倒され2分も保たなかったという天心の完敗に終わった。
 しかし、私は那須川天心はよく戦ったと思うよ。
 まあ、那須川天心の天狗の鼻を折ると言う意味では価値のある試合だった。
 パンチ力はともかく、ジャンルが違えば、テクニックでもスピードでも、上には上がいる。
 攻撃に足技が使えないボクシングは、それが使えるキック・ボクシングより、拳で打ち合うスポーツという点ではより洗練されている。
 制限があるところに進化があり、洗練がある。
 天心はキック・ボクシングで、メイウェザーはボクシングで戦うくらいでちょうど良かった。
 だから、試合結果のニュースをネットで見たとき、やっぱりねと思ったので、天心の無残な負け方など見る気になれなかった。
 しかし、今日、ファンたる者やっぱり見ておかなくてはと思い直し、You Tube で2つ見た。
 最初は中継もので、次は解説付きのもの。
 解説付きはコアなファンの作品らしくスゴイ内容だった。
 それで、最初の印象を自信持って言うのではないけれど、那須川天心はこれで自信を喪失することはないよ。
 最初のダウンでメイウェザーがいやらしい人間なら、猫がネズミをなぶり殺しにするように3ラウンドまで続けたと思うが、那須川天心の才能に敬意を払ったのだろうな、花を持たせたりせず、1RできっちりKOしたね。
 このレッスンで、天心が得たものは大きいだろう。
 プレッシャーのかけ方、間合いの取り方、追い詰め方、フェイントのかけ方、パンチの当て方、防御の修正の仕方等々。
 それはともかく、試合だけを見れば、結局、これはウェイト差という階級の差を思い知らされただけと思う。
 同じ階級(フェザー級)なら、最初の左フックであそこまで倒れはしない。
 メイウェザーはスーパー・フェザー級から始めてスーパー・ウェルター級まで5階級を制覇し、50戦無敗のまま引退したカリスマ・ボクサー。 
 パンチの破壊力はそれほどでも無いし、ウェイトもウェルター級がベスト・ウェイトと思うが、それでも4階級の差がある。
 体重による階級制を採用している格闘技では、小男は大男には勝てないという常識があり、それも1階級や2階級の差ならそれを克服できる場合もあるが、さすがに4階級や5階級ともなると、それは如何に天才といえども無理というものだ。
 無理を通り越して、危険ですらある。
 それをあえてやった。
 エキシビション・マッチだから。
 メイウェザーは公式試合じゃ無いから、ぶくぶく。
 天心はメイウェザーの重い階級のパンチに対抗するため、できるだけ増量して、ぶくぶく。
 両者、その割にはスピードがあって、この程度の出来でも、この二人に勝てるどうクラスのボクサーはなかなかいないだろうと思わせた。
 那須川天心は、まだ19歳なのだから、この際、強い相手が世界にいっぱいいるボクシングに転向したらどうかと思う。
 スーパー・バンタムからスーパー・フェザーの間で十分世界を狙えると思う。 
 キックの世界では、このままだと沢村忠になるだけだ。
 もちろん、沢村はスゴかったが、天心にはボクサーとしての可能性がある。
 K-1王者武尊とやれないなら、キックをまだ続ける意味が無いではないか。
 では。

2019年1月8日 / misotukuri

映画「ダウンサイズ」に見る絶滅への予感度

 昨夜、積ん録映画「ダウンサイズ」(17年、米、アレクサンダー・ペイン監督、マット・デイモン、クリストフ・ヴァルツ、ホン・チャウ他)を見た。
 医学の道を母親の介護のため断念し、今は作業療法士として夫婦二人の慎ましやかな人生を送っていた主人公だったが、期待していた住宅ローンの審査に跳ねられ、お先真っ暗の沈んだ気分でいたところ、高校の同窓会で話題のダウンサイズ処置を受けた同級生カップルの勧誘で自分たちもダウンサイズすることを決意したのだったが・・・・というのはまだまだ序の口のお話。
 日本は人口減少が問題だが、世界的に見れば人口増加が諸悪の根源的に問題だ。
 現在地球上の世界の人口は、約75億人。
 ローマクラブが1972年に「成長の限界」を出した時の世界の人口は約40億人。
 当時、技術革新が無くこのまま現状の延長線上に事態が推移すると、石油は20年で枯渇すると言われたが、石油は50年経っても枯渇しなかった。
 これは技術革新によって石油の消費量が減ったからではなく、環境保護論者達にとっては不都合な真実だが、石油がほぼ無尽蔵にあることがわかったからだ。
 しかし、環境破壊問題や石油以外の資源や食料争奪問題や貧富の差の拡大問題はますますひどくなって行きつつある。
 これらの諸問題をいろいろ考えると、結局は人口増加が問題だということに帰着する。
 人口増加問題を解決する試みはこれまでことごとく失敗してきており、人為的に理性でもって解決するのは事実上困難で、私などこれは生物の進化の歴史的問題だととらえなければならないことなのかもしれないと心の底ではあきらめている。
 つまり、種の興隆と滅亡という数億年の生物の歴史の中で人類もまた例外では無く、繁栄の頂点にあって滅亡の兆しを感じているということだ。
 この映画は、人口増加問題を解決する理性的方法の中でも、一番実現が不可能に近いという人体のダウンサイジングがもしも出来たら世界はどう変わるかという思弁的SF映画だ。
 人体のダウンサイジングを扱ったSFというのは、「ミクロの決死圏」に始まって最近ではマイクル・クライトンの遺稿をリチャード・プレストンガ完成した「マイクロワールド」が有名だが、人口増加問題の解決手段としての意識は無かったように思う。
 特に「マイクロワールド」では、人体をダウンサイズすると現実の物理世界の中でどのような作用を受けることになるかをリアルに描き出してくれたおかげで、この映画のダウンサイジングには物理現象的に問題があることが目についたが、それには目をつぶることにして、やはり、思いもかけない問題が他にもあることに気づかせてくれた。
 たとえば、このダウンサイジングの技術が政治的に悪用される問題だ。
 強権的な国家では、反体制運動家を政治犯として、ダウンサイズの刑に処される実例が出てくる。
 これは絶対あるね。ダウンサイジングの隠れた意図である棄民がモロに出てきた感じだ。
 また、資本主義国家では、普通のサイズの人間社会では消費が縮小することから、経済が縮小していく一方、ダウンサイズした人間社会では普通サイズの人間社会から持ち込まれた金の資産価値が相対的に高まり、貧富の差がより極端に広がる。
 どちらも、その傾向が続けば、デフレなのだが、原因が違う。
 ダウンサイズ人間の社会に普通サイズ人間社会のお金を持ち込むと、先進国の普通の人間でも、未開発国へ行けばリッチな生活が出来るというのと同じ効果が得られる。
 しかし、一文無しでダウンサイジングした人間はダウンサイズ人間社会でも、0は0だから、単なるチビでしか無い。
 100万円が1億円の価値になる社会では0:100が0:10000になるのだ。
 と言うより、持たざる者と持てる者との格差の比較では、(100-0) : (10000-0)=100 : 10000 = 1 : 100 だな。
 ダウンサイズとその効果が逆数に同じと言うことは無いだろうが、仮に同じとすると、100分の1のダウンサイジングの金融的効果は100倍となり、格差も100倍となる。
 しかし、その社会問題はともかく、普通サイズの人間社会に与える経済的影響はこの映画で言うほどのものでは無いと思う。
 ダウンサイズ人口の絶対数の割合にもよるし(この映画では結局5年間で全人口の3%がダウンサイジング手術を受けたというから、おおざっぱに言うと、3%×ダウンサイズ割合約2000分の1×1/5が年間消費に与える影響だから、それを仮に余裕を見て1000倍しても0.3%のマイナス.。どんな複雑なシミュレーションしてもその程度だろう。)、コミュニティから出て移動するときの手段(Fedexとか既存の交通手段)を考えると、エネルギー消費量はほとんど変わらない。
 だが、それにしても、全人類がダウンサイズした場合なら、経済はどう変化するのだろう。
 そのシミュレーションによっては、年間ダウンサイズする人口もまた決まってくるだろうし、ダウンサイズした人間社会での政治の問題も出てくる。
 それと、ある程度ダウンサイズが進行すると、それ以上ダウンサイズする積極的必要性もなくなってくる。
 ある日、ぐるっと見渡してみると、チビッコ人間が増えた分、地球はいつの間にか結構広くなってる!
 なんと、「広くて素敵な地球じゃないか!」という具合だ。
 また、ダウンサイズされた人間社会が普通サイズの人間社会よりもパラダイスならダウンサイズしようかとも思うだろうが、格別そうでもないなら、ダウンサイズしてもメリットが無いと思うだろう。
 しかもまた、あまりにもダウンサイズされた人間社会がパラダイスだと、普通サイズの人間たちから嫉妬され、ダウンサイズ人間社会と普通サイズ人間社会との間で政治的対立が起きるだろう。
 映画の中でも、ダウンサイズした人間の選挙権も2000分の1 にしろとかいう話が出てくる。
 そうなると、一つのダウンサイズ人間社会がまとめて普通サイズのテロリストのような犯罪者によって破壊される可能性もある。
 箱庭みたいなダウンサイズ人間用コミュニティが目障りと思うと、車で轢きつぶしたいという衝動がわき起こってくるのを抑えるのはなかなか難しいだろう。
 そうした場合の刑事司法問題はどうなるのか?ジェノサイドだよ、これは。
 ・・・・等々考え出すと切りが無くなる。
 こういう可能性を考えると、たぶん、人類が自ら理性的選択として行うダウンサイジングもまた成功するとは考えにくい。
 しかし、たとえばだが、仮にAIが格段に進歩し、政治をAIに任せて、それが所与のものとして人々に受け入れられるようになったら、可能性はあると思う。
 ある日、目が覚めると、全人類は一人残らず2000分の1にダウンサイズされていたということもあり得る。
 もっとも、この映画は、主人公がダウンサイズしてから、物語の方向性が変わって行き、滅亡期に入った人類の一人の人間として限りある人生をどう生きるかという話になっていく。
 ダウンサイズしたからと言って寿命が延びるわけでもないし、社会矛盾は黎明期の社会だけに普通サイズの社会よりももっと大きい。
 最後に主人公が、種の保存のために生きることと、個人としてのこの人生を生きることとは別のことだと気づくところで映画は終わる。
 人類はいずれ絶滅するだろう。
 その原因が何であれ、いつかは必ず訪れる。
 それがいつのことか、明日かも数百年先かも何百万年先かも。
 それはほぼ確実にやってくる未来だが、あなたの人生はいったいいつまで続くのか?何十年?何年?それとも何ヶ月?
 「人類に貢献したいなら、精子バンク(あるいは卵子バンク)に寄付しろよ。いつ来るかわからん未来のために、今しなければならないことを君は投げ出すのか?」
 そうだな。確かにそうも思うが、人類に貢献したいというカルトに行く人間も必要だろうとも思う。
 白亜紀末の大隕石の衝突で起きた大絶滅を生き延びた生物は、体長25cm以下の種だったという。
 大絶滅問題では、地球温暖化、特にCO2の濃度の増加による熱死よりも、むしろ酸素濃度の低下による窒息死が問題と思うが、そういう環境変化に順応しやすくするためにもダウンサイジングは有効と思う。
 しかし、これは多分計画的に全人類に対して行うのは無理だろう。
 この映画を見て、自然現象としてのダウンサイジングならともかく、人工的にはやはり、実行面で問題がありすぎる。
 人類絶滅を避けるには、やはり閉鎖系の地球世界を出て、宇宙へ進出するしかないと思うようになった。
 逆に、月にあるという資源を地球に持ってこようとするのは、全くもって、大いなる愚行と言って良いことを付け加えておく。
 消費は地産地消が一番良いのだ。
 では。

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2019年1月7日 / misotukuri

映画「ダーティ・ハリー」シリーズ5連発でスタート

 今年(2019年)は映画「ダーティ・ハリー」シリーズ5連発で始まった。
 そう言えば、何年か前もそうだったなという気がしないでもないが、忘れた。
 「ダーティ・ハリー」(71年、ドン・シーゲル)
 「ダーティ・ハリー2」(73年、テッド・ポスト)
 「ダーティ・ハリー3」(76年、ジェームス・ファーゴ)
 「ダーティ・ハリー4」(83年、クリント・イーストウッド)
 「ダーティ・ハリー5」(88年、バディ・ヴァン・ホーン)
 映画としては、女性警官の相棒が出てくる「ダーティ・ハリー3」がスケールが大きくて、ラストの皮肉も効いていて一番好きだが、物語の深みとか暴力描写の鮮烈さでは、やはり、「ダーティ・ハリー」と「ダーティ・ハリー2」だな。
 「ダーティ・ハリー」は、刑事裁判での違法収集証拠の排除、ミランダ原則(被疑者の権利の告知)というものが、確信犯やサイコパスのような反社会的人格障害者相手には無力ということを警告するメッセージが込められていた。
 「ダーティ・ハリー2」では、そういう裁判では裁けない悪を警察官の現場処刑や「闇の仕置き人」的に処刑していく危険性を警告するメッセージがあった。
 特に、正義の名の下に自らの殺人衝動を満足させるために必要以上の虐殺をやってのける処刑グループに「僕たちの仲間に入りませんか?」と誘われたハリーが「見損なうなよ」と応えて拒否するところなど、後のメル・ギブソン演じる「リーサル・ウェポン」(自殺衝動を抱えている警官が主人公)とは、一皮も二皮も違った深読み可能な娯楽アクション映画だ。
 ダーティ・ハリー・シリーズも3以降は、娯楽映画としてそれなりに面白くはあるけれど、1,2のような深みは消え失せ、ストーリーや悪への怒りが個人的なものに収斂していく。
 シリーズが進むにつれ、ヒーローも生長するしファンのヒーローに対する人格的理解も進むことから、より関心が公よりも私に移っていくことからそれも致し方ないことかもしれないが。
 シリーズも当初から17年も経過したシーズン5など、まだクリミナル・マインドみたいな事件をハリー・キャラハン刑事がダーティ・ハリー流でやってる意義があるのかと思う。
 面白くないことはないけど、犯罪者の動機があまりにも個人的で広がりがない。
 最初の「ダーティ・ハリー」からもうすぐ50年が来ようとしているが、今後の関心はリメイクだな。
 誰がハリー・キャラハンを演じるか。
 「クリミナル・マインド」や「S.W.A.T」の黒人俳優のシェマー・ムーアなんかどうかなと思ったが、もう48歳ではね。
 それよりも、これほど複雑になった21世紀の正義をどう描くか?だな。
 では。

2018年12月29日 / misotukuri

今年読んだ本、見たボクシングのベスト3、映画ベスト10など-2018年版

 私事ながら今年はなーんもいいことがなかった。
 去年から丸1年もたたずに5月また肺炎になり、7月認知症でグループ・ホームにいた母が死亡、9月以降は毎月のように風邪を引き、そのたびに持病の腎臓病が悪化し、いよいよ透析寸前まで来たかと思えば、母の相続でもめ返り、年内決着がつかず翌年繰り越しとなった。
 まあ、腹立たしいことばかりに追われて、なかなか落ち着いて本を読んだり、ボクシングや映画を見るどころではなかったのだが、ようやく年の瀬もあとわずかになり、こたつで1年を振り返る総集編の時が来た。
 読んだ本のベスト3は、1 大名絵師写楽(野口卓)、2 下山事件 暗殺者たちの夏(柴田哲孝)、3 写楽 閉じた国の幻(島田荘司)。
 なんとSF本が一冊もなく、日本人作家の小説ばかりで、写楽関係が2つ入った。
 ある読書会で島田荘司の「写楽 閉じた国の幻」を知って、久しぶりに興奮し、なるほど説得力があるなと思ったものの、説得力がいかにあっても真実そうとは限らないと思い、「写楽の会」の主要メンバーの人たちの話を聞いたが、まあ彼らは写楽=斉藤十郎兵衛説の信者で、何を聞いても宗教問答みたいで参考にならなかった。
 写楽=斉藤十郎兵衛説というのは、ミステリ・ファンならいくら斉藤十郎兵衛が実在していた証拠が見つかっても、直感的にこれは違うぞと思ってしまう説であることを「写楽の会」の人に言いたかったが、面と向かっては言える雰囲気ではなかった。
 そこへ、年末、「大名絵師写楽」を読んで、いままで読んできた写楽ものの小説では最高だなと思いつつ、これは島田荘司説の指摘を踏まえた上での小説で、これも大いにあり得るけれど、いくつか疑問点が残った。
 これもまた説得力がありすぎて、小説としては面白いが、それを言うなら、つまりすべては蔦屋重三郎が仕組んだことなら、何でもありじゃないかと思えてくる。
 写楽の作品も全作品じっくり比べてみると、小説がより一層楽しめるので、是非おすすめする。
 おかげで新書もSFも何冊か厳選したのを読んだが、写楽ミステリの前には、印象がガクッと下がるのは否めない。
 ボクシングのベスト試合3は、1 井上尚弥VSファン・カルロス・パヤノ、2 ホルヘ・リナレスVSワシル・ロマチェンコ、3 デオンティ・ワイルダーVSタイソン・ヒューリーだな。
 1,2の試合を見ると、ホント、ボクシングって芸術だなと思う。殺戮のアート。
 3の試合では、タイソン・ヒューリーのスピードには驚いた。
 ヘビー級であれだけの巨体があれだけのスピードで動かれたら、皆、捕まえるのに疲れてしまうだろう。
 映画もただいま59本で、あと一本見られるかどうか。
 少ない中なので、ベスト10もかえって組みやすい。
 バーッっと、20本くらい候補を挙げてみたが、古い作品と、堂々の気楽な娯楽作品が目立ったが、ほとんど選外。
 一応、ベスト10をつけたものをあげてみた。
 1 「フェリーニのアマルコルド」13年、伊、フェデリコ・フェリーニ
 2 「幕末太陽傳」57年、日活、川島雄三
 3 「シュガーマン/奇跡に愛された男」12年、スウェーデン、マリク・ベンジェルール
 4 「アバウト・タイム/愛おしい時間について」13年、英、リチャード・カーティス
 5 「夜に生きる」16年、米、ベン・アフレック
 6 「プールサイド・デイズ」13年、ナット・ファクソン
 7 「裸のジャングル」66年、米、コーネル・ワイルド
 8 「バニー・レイクは行方不明」65年、オットー・プレミンジャー
 9 「レディ・ガイ」16年、米、ウォルター・ヒル
 10 「TEST10テスト10」11年、カナダ、エリック・ワーセンバーグ
 1,2,8は、映画史に残る傑作。
 3は、記録映画だが、こういう歌手がいること自体、奇跡だ。汚濁の街を行く清貧な吟遊詩人。
 4は、SFファンなら必見。ただ、これは時間移動ではなく、可能性の未来や過去を予知しただけのように思う。
 5は、デニス・ルヘインの原作(エドガー賞受賞作)がいいので、映画も水準以上の出来。よくまとめている。
 6は、よくある少年が自立して大人になっていく話だが、少年を見守る大人たちがなかなかいい。
 7は、半世紀以上前の作品とは思えないど迫力のサバイバルもの。
 9は、気がつくと女性に性転換させられていた殺し屋という困ったアイデア・ストーリー。
 10は、B級ホラーサスペンスだが、これだけポイントを押さえてたら大傑作。

 こうやって見ると、いつの年でも確実にベスト20に入る作品ばかりだ。
 では。