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2018年7月7日 / misotukuri

麻原彰晃、お前もポアだね!

 7月6日 オウム真理教の教祖麻原彰晃(本名:松本智津夫)他元幹部の計7名(井上嘉浩、早川紀代秀、中川智正、新実智光、遠藤誠一、土井正実)の死刑が執行された。
 早速、EUなど死刑制度廃止国からこの死刑執行に関して反対の声が上がったと朝日新聞が報道している。
 毎日新聞はもっと正確にEU駐日代表部が加盟国の駐日大使らと連名で、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表したと報じている。
 死刑制度の存廃を考える上で、恐らくこのケースほど適当なのは少ないだろう。
 死刑制度廃止国の主張は、たいてい次の3点。
 1 死刑は究極の人権否定である
 2 死刑には犯罪抑止効果がない
 3 冤罪による過誤があっても人命は元に戻らない 
 まず、1だが、これは人権を擁護すべき国家による人権否定は自己矛盾であり許されないということだろう。
 国家が私的報復を禁じる理由というのは、目には目を歯には歯を命には命をという罪と刑の適切な等価性を担保する罪刑法定主義の考え方にある。
 ところが、死刑制度廃止論者は、命の場合は被害者の命よりもまだ生きている加害者の命の方が大事というのだ。
 その理由として、2や3の懸念を挙げる。
 だが、死刑には犯罪抑止効果がないという統計的事実の信憑性とか冤罪過誤の不可逆性を議論する前にもっと人口学的な視点で「死刑を執行したくない」という気持ちがどこから生じるのか考えてみたらどうだろうか。
 ブログでグダグダ論証するより、結論を急ぐと、EU諸国では女性の政治的地位が高く、投票人口的にも女性の方が多いことが原因だろう。
 よく「戦争は究極の人権侵害です」などと言うが、女性は総じて反戦主義で、大義があろうとなかろうと関係なく戦うのを避ける。
 ある人権研修のアンケートのとりまとめをしていて驚いたのは、女性はセクハラや児童ポルノには生理的反発を示すのに、悪人を殺すくらいなら自分が殺された方が良いなどと本気で思うことができる人がいるということだ。
 女性全部がそういう人ばかりではないだろうが、こういう種類の人間と権利とか義務について共通の理解を得るというのは難しいと思った。
 攻撃性というか、もっとはっきり言えば、殺戮本能というのは、女性より男性の方が強く、それを社会規範で巧みに制御している。
 つまり、法、道徳、宗教、倫理などのルールで担保される「大義」とか「正義」という言い訳で。
 だから、戦争なんかでは、本当は殺したいから殺しているのに、それを言っちゃおしまいだから、殺したくないけど「大義」や「正義」のために義務を果たしているのだと自分に嘘をつく。
 交戦中の敵兵が我が子のような少年(少女)兵だったら、「殺し」をためらうのはまた別の感情で、それでも殺すのは男で、捕まえて「洗脳」を解こうと試みるのが女だろう。
 そもそも侵略(侵入)者と見なされているのはこちらの方で、彼らが「洗脳」されて少年(少女)兵になっているとは限らないのに。
 確定死刑囚というのは、だいたい最低2人以上殺している。
 こういう人間は自己抑制がもともと効きにくかったり、「洗脳」や「マインドコントロール」で別の規範を上書きされていたりするので、ルールを哲学的に疑って、「大義」とか「正義」なんてものはないのだとか、評論家や学者が難しい話をすると、それがどんなに高尚なことだとしても、結果として辛うじて機能していた抑制を取っ払ってしまうことになる。
 私は教祖になってしまった麻原彰晃の気持ちもわからなくはない。
 彼が自分の宗教家としての妄想を口にした途端、心酔する信徒たちが単純に過激なことを始めてしまうと、もはやそれを止めるわけにはいかなくなったというところもあったと思う。
 私自身、仕事関係の研修で話を面白くするために極端なことをしゃべったら、何の知識も経験もないくせに度胸だけはあるという手合いから、ヤクザの用心棒かなんかのように先生、先生とおだてられるやら頼られるやらで、向こうはこちらを利用しようとしているのは見え見えなのだが、引くに引けなくなったことがある。
 紛争国の軍事顧問なども同じだろうと思う。
 松本千津夫も麻原彰晃に祭り上げられてしまえば、そう振る舞うしかなかったのだろう。
 自分の死刑執行も、彼にとっては、ポアだね。
 いい思いもしたんだから、仕方がないとあきらめろ。
 では。
<追伸2018.7.7>
 PM8:23頃、関東地方で強い地震。 すわ、彰晃の祟りか?
 まあ、そういうのがあるとしたら、思うに、逆恨みでも物凄いパワーだね。
 どこまでも勝手な奴だ。
 
 
 

2018年7月6日 / misotukuri

映画「エンドレス・マーダー」の運命VS自由意思度

 今日見た映画「エンドレス・マーダー(The Suicide Theory)」(15年、米、ドル・ブラウン監督、スティーヴ・モウザキス、レオン・カイン他)は、いかにもB級めいた題だが、低予算というだけで、なかなかよくできた映画だ。
 俳優の発音はいわゆるコクニー(Cockny)で、多分、オーストラリア英語だが、アメリカの資本が買ったのかもしれない。
 この映画のレビューを見ていると、程度が低いというか、よく見ていない人が多いね。
 自分が程度の高いよく見ている人間だと言うつもりはないが、あまりの低評価に異議を申し立てたい。
 根っからの殺人者で凄腕の殺し屋スティーヴンの元に何度自殺を図っても死にきれないパーシバルがやってきて自分を殺してくれと頼む。
 いつもは仲介屋を通す決まりになっていたが、どうやったのかパーシバルはスティーヴンのことを見つけたらしい。
 スティーヴンは固辞するが、パーシバルはあきらめない。
 スティーヴンは、手渡された報酬の大金を見て、ルールに反するが、引き受けることにした。
 だが、本当に、このパーシバルはしぶとい奴で、何度殺しても、その都度、何かの偶然で一命をとりとめる。
 スティーヴンは、それを「偶然」だと主張し、パーシバルはそれを「呪い」だとか「運命」だと言って譲らない。
 もたもたしているうちに仲介屋に抜けでやっていることがバレて、叱責を喰らう。
 「何やってるんだ。標的のフランクはどうなった?さっさと片付けろ」という具合だ。
 ところが、パーシバルの一件で調子が狂ったスティーヴンは、その都度何かしら邪魔が入ってフランクを殺せなくなっていた・・・
 この映画のシナリオはよく練り上げられていて、二人の関係というのはある程度想像はつくものの、それだけに終わらないどんでん返しが用意されている。
 スティーヴンがパーシバルの個展に向かう前のレストランのシーン(スティーヴンは仲介屋に「もう抜ける」と言っている)がヒントだ。
 この段階ではスティーヴンはまだ自分のことがよくわかっていない。
 この映画は単に「因果は巡る」というだけではない。
 それはまあ、表面上ストーリーの整合性を保つためだけのもので、それと裏腹にもう一つのストーリーがあるのだ。
 それは、スティーヴンはなぜフランク(自殺志願のパーシバルではない)を殺せないのかということだ。
 運命論者の画家パーシバルに対し、自由意思を信じる人殺しのスティーヴンの本当の姿の物語だ。
 そりゃそうだ。
 運命論で殺し屋はできない。それはないだろう。
 それなのにパーシバルは、すべて運命であらかじめ決まっているのだと言う。
 それを考えると・・・読めてくるものがある。
 それで、あなたなら、どう思うか?
 この世で人間がすることは、運命か自由意思か?
 私は、運命は信じないが、必然(的結果)はあると思う。
 そこに偶然が作用して、人間の意思どおりにはいかないこともあるが。
 では。

2018年6月29日 / misotukuri

映画「ビヨンド・ザ・トレック」はデザインベイビー黙示録か?

 今日は、積ん録整理第5弾。
 映画「ビヨンド・ザ・トレック(TELEIOS)」(17年、米、イアン・トゥルートナー監督、サニー・メイブリー、ランス・ブロードウェイ他)を見た。
 WOWOWの引用だが、<遺伝子操作で生まれた能力も気質も完璧な新人類たちの精鋭チームが、遭難した宇宙船の救助に向かう。だがそこで彼らが知る真実とは?>って、なかなか面白そうじゃないか。
 どうせB級かC級SF映画なんだろうけど。
 と、期待せずに見ていた。
 確かに途中はダレル。
 唯一の生存者と女性型アンドロイドが発見され、いったい、何が起きたのか尋問して聞き出そうとするのだが、その生存者は中国語をしゃべったり、ロシア語をしゃべったり、フランス語をしゃべったりし、クルーをけむに巻く。
 そのうち、本からの引用だと分かり、このようなことをしていてもらちが明かないと見て、彼を拷問にかけることになる。
 ちなみに、私がこの引用文で何という本からのか名前が分かったのは、「孫子」だけだった。
 これはいわゆる「迂直(うちょく)の計」というものだ。
 どうやら生存者とアンドロイドの間には明らかに性的な絆があるようだから、拷問でアンドロイドを生存者の目の前で解体しちまえとやっていくと、脳の破壊の段階で、ついにギブアップ。
 この狂気を装った劣等人種の生存者は、セックスメイトのアンドロイドの修理許可と引き換えに、恐るべき事実を告白する。
 一方、完璧な新人類たちの間にも、完璧な身体精神からはあり得ない小さな異変の兆しが表れ始める。
 やがて、故障していた通信装置が復旧し、地球からの最後のメッセージを聞いて、彼らはその異変の意味する真実を知らされる。
 何と彼らの遺伝子に突然変異が起きて、いろんな障害が起き始め、最後には全員狂い死にするというのだ。
 メッセージの最後は「本当に済まない」だった。
 ドクターは、メッセージの言葉の中に、彼らをそうなる前に救い出す方法のヒントを得る。
 しかし、それはあまりにもえげつない方法だった。
 いやあ、これはなかなかすごいね。
 デザイン・ベイビーが普通に民間で行われるようになると、遺伝子操作の弊害も必ず出てくると思うが、このSFはまるでそれの黙示録だ。
 そうやって、人類VS新人類の生存を賭けた戦いが起きるか、あるいはこの人間そっくりのアンドロイドのようにAIが漁夫の利を占めるか。
 これら三者の平和共存の未来は多分ないと思う。
 ちょうど、積読の整理もやっていて、今は以前に途中で投げ出した「人間の終わり」(フランシス・フクヤマ)を読み直しているところで、まさにこの映画とドンピシャの本。
 「人間の終わり」が書かれたのはディープラーニングの発明以前で、今の第三次AIブームを見ると、より複雑な修正が必要だという気はするが。
 それでも、映画を見終わって、ますます、読み上げるのに力が入った。
 では。

2018年6月27日 / misotukuri

アマチュア・ボクシング界よ、お前もか?

アマチュア・スポーツ界の不祥事続きに私も言いたいことがあるが、もはや監督・コーチなど指導者層=悪い権力者、選手たち=かわいそうという「空気」が出来ている。
本当にそんな図式が正しいのかどうかはともかく、こうなったら、へたにやり玉に挙げられた指導者層の擁護論などしようものなら完全にKY(空気読めない)で、しばらくは何を言っても無駄。
森友・加計問題にしても同じで、みんな何故そんなにいきり立つのか?
つらつら考えてみるに、あれは嫉妬だな。
日頃、根拠もなく自分は民主政治の主役と思っていたのに、自分たちは蚊帳の外に置かれたまま、実際は権力者とそのお友だちら取り巻きと権力構造を支えているおべっか使いの官僚どもがいいようにやっているということがわかったからだろう。
最近ではアマチュア・スポーツ界の女子レスリングの伊調馨選手へのパワハラ問題、日大アメフト部の反則タックル指示問題など、全く森友・加計問題と同じ構図が見て取れる。
民主政治をアマチュア精神とでも置き換えてみれば、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。
われわれは偉そうなことを言っているが、しょせんはファンである観客に過ぎない。
勝利者インタビューで、「今日このボクがこうして勝てたのも、会場のファンの皆さんやテレビで見ている全国のファンの皆さんの暖かいご声援のおかげです。ありがとうございました・・・」云々、決まり切った陳腐な挨拶を聞いて、われわれは応援した選手との一体感を刺激されて感動を覚える。
しかし、もちろんこれは多少の真実はあってもフィクションであり、本当は今日の勝利は誰のおかげでもなく、勝利者自身のおかげなのだ。
では、あの勝利者のファンへのお礼の言葉は何だろう?
あれはまあ、儀式と言うべきもので、それをくだらないというのは、タブーに触れて許されないことなのだ。
ファンがあってこそ初めて成り立つゲームだということを無視しているからだ。
それは、ゲームのルール以前の前提だ。
しかし、本当にそうだろうか?
ゲームやそのルールは、ファンがいようといまいとゲームする人間がいれば成り立つ。
プロボクシングの世界では、ギレルモ・リゴンドウというSバンタム級の名チャンピオンがいた。
いや、まだ引退していないので、いるのだろうが、(ルールを守って)勝てばいいというスタイルで、無敵だったが、全く人気がなかった。
誰もエキサイティングでない彼の試合など見たくないのだ。
しまいには、対戦相手に困るようになり、結果として防衛戦を長らく行えなくなった。
そこで彼を世界チャンピオンとして認定していた団体は、彼の落ち度ではないにも関わらず、彼からチャンピオンベルトを取り上げてしまった。
こんな理不尽なことが許されるのか?
しかし、それがプロの世界ということで、プロはお金を稼いでなんぼで、興行ができなければいくら強くても意味がないのだ。
もっとも、そのクラスで一番強いのは、チャンピオンであろうとなかろうと、ギレルモ・リゴンドウということは誰でも認めざるを得ないのだが。
これはプロである政治の世界でも同じことで、本当に強いのは一部の権力者たちで、歴史が始まって以来、誰でもわかりきったこと。
ところで、今は民主政治のルールで政治家たちは戦っている。
強くても人気のない権力者はこれがトップでは選挙が戦えないとなると、理由があろうとなかろうと権力の座から引きずり下ろされる。
安倍政権の強みは、若年層の支持が根強いからだ。これがある限り、安倍政権は続く。
棺桶に半分足を突っ込んだ老人層が偉そうに時代遅れのことをあれこれ言って安倍政権をこき下ろしても、今以上に良くしてくれると期待できる代替案を提示できる政治家が他にいない。
いずれ安倍政権は終わり、つなぎの政権が出来るだろうが、その時は確実に景気が後退している。
失業率も急上昇。
そして、満を持して、小泉進次郞のようなサラブレッドが出てくる。
彼を見ていると、しょせん、アラブはサラブレッドに敵わないなと思う。
しかし、彼が総理になる頃には、この世の中、恐らくサラブレッドの割合が結構高くなっていると思う。
まあ、それはともかく、森友・加計の問題では、二つ一緒くたにするのは本当はおかしいが、良く考えてみると、政治家のルール違反とは違うのではないか?
いったい、何がルールに反しているのか?
こう言うと、ホレホレ、あなたもすぐにいきり立つと思うが、頭を冷やしてよく考えてみたらいい。
安倍政権批判でよく言われるのが、憲法解釈を始めとして「自分の都合に良いようにルールを変えている」ということだが、しかし、それはおかしいことだろうか?
以前のルールを変えてはいけないというルールはないわけで、現実の必要に応じて適切にルールを変えていくことの方が教条主義や新興カルト宗教に陥らず大事だと思う。
だいたい「変えてはいけないものもある」などと言って後生大事に守っているルールって、どういう背景のもとに形成されたにせよ、今なお正しいと言えるものなのかよく考えてみたらどうだろうか。
変化を嫌うのはいいが、恐れてはいけない。特に何かで権力を持つ者は。
権力もないのに変化を嫌うのは、現状から何らかの利益を得ていて、それを失うのが怖いからだ。
それなら、安倍政権を支持する若者たちと何ら変わりはない。
しかし、変化というのはどちらにしても起きるモノだし、不利益を被るようになるとしてもわれわれはそれに耐えられるようにしていかなければならない。
不可避の変化にあらがうのも、欲得無しなら意味がないことはないが、欲丸出しなのは醜い。
長々と書いてきたが、本題は、プロボクシングで日本人として初めて主要四団体の世界チャンピオンになった高山勝成(名古屋産大)が、アマチュアとして東京五輪出場を目指しているのだが、日本ボクシング連盟がアマ登録を認めないことの理不尽についてだ。
国際ボクシング協会(AIBA)は2016年のリオデジャネイロ五輪からプロ選手の出場を解禁しているが、日本では制限されたままで、規定の改正を求める動きが出ているにもかかわらず、日本ボクシング連盟は、頑としてそれを受け入れない。
プロの元世界チャンピオンがオリンピックに出場したとしても、そこでメダルを取れるかどうかは保証の限りではないが、高山勝成はアマチュアでも世界チャンピオンになるという目標にチャレンジしている。
彼は日本のプロボクシング界がまだ世界チャンピオン認定団体としてWBAとWBCしか認定していなかったときから、日本ボクシング界を棄ててトレーナーと共にIBFやWBOでの新天地を求めて、世界に飛び出して行った人間だ。
彼のおかげもあって、ようやく日本でも主要四団体が正式に世界チャンピオン認定機関として承認された。
彼がいなければ、今をときめく井上尚弥だって、高山と同様、日本プロボクシング界から追放だよ。
日本ボクシング連盟は、規約を改正しない理由について説明すべきだろう。
多分、根拠はない。
この日本ボクシング連盟(http://jabf-kizuna.com/)を牛耳っているボスが誰なのか知りたくもないが、彼らはこれだけアマチュア・スポーツ界の不祥事が続いている世の中の空気がそれこそ読めないのだろうか?
オリンピックの金メダリストなどのプロ転向を邪魔したりして、彼らは思い上がっている。
彼らは自分たちの存在が、プロより下と見られるのが嫌なのだろう。
しかし、選手たちは、誰もがオリンピックに出た時点でアマ競技は終了し、その後はプロの世界チャンピオンを目指すという人生設計を持っているはずだ。
ボクシングはスポーツの中でも極めて過酷な競技で、誰もが出来るスポーツではない。
プロ・バスケットボールの神様と言われたマイケル・ジョーダンがヘビー級の試合を見て、誰の試合だったか忘れたが、「どうだ、彼らと(試合を)やってみないか?」と言われて、「機関銃でも持たしてくれないと嫌だよ」と言ったくらいで、互いに拳で傷つけ合う野蛮で命に関わる危険なスポーツなのだ。
そういうほぼ殺し合いに近いゲームで才能があるということは、どういうことか?
弟子が自分を超えるようになったら、いつまでも自分の元につなぎ止めてはいけない。
伊調馨にしたって、オリンピック4連覇だぜ。世界中見渡したってそんな天才はいない。前人未踏の領域に踏み込んだスーパー・ウーマンだ。
ちんけな猿山のボス風情が何様のつもりだ。モノが違うんだよ。お前らとは。
日大アメフト部の危険タックルをやれと命じられてやった情けない選手もそうだ、高山勝成の根性を見習え。
高山は、何の保証もないにもかかわらず、自分の可能性に賭けて正しいと信じた道をどんな困難が待ち構えていようとひるむことなく立ち向かっていった。
今もそうだ。
私は彼がオリンピックに出られても、正直言って、金メダルはおろか入賞も難しいと思う。
というのは、世界には彼の出る軽量級は才能があっていくら強くても、その国の興行面の問題があって、プロになれない選手というのが一杯いると聞くからだ。
井上尚弥にしてからロンドン・オリンピックのアジア予選でカザフスタンの選手に敗退し銀メダルで、オリンピックには出場できなかった。
その彼がプロでは日本最速三階級制覇世界チャンピオンでモンスターと言われている。
上には上がいると考えていいだろう。
しかし、いいではないか。
たとえ、国内予選で敗退しても、年齢的なこともあるし、だからと言って、門戸を閉ざす理由はない。
プロの世界の理不尽は金がらみなのである程度仕方がないが、アマチュアの世界での理不尽は、それこそ何なのだと思ってしまう。
ここは、速やかに規約を改正して、高山選手のアマ資格を認めるべきだろう。
では。

2018年6月26日 / misotukuri

「アメリカン・スナイパー」読了して思うこと

 「アメリカン・スナイパー」(クリス・カイル他)読了した。
 入院中は2日に一冊のペースで読み上げたのに、退院すると、これは結局18日かかった。
 忙しかったこともあり、まあ、こんなものかもしれない。
 著者本人が死んで5年もたって、また映画も見た後で、なぜ、今、「アメリカン・スナイパー」なのか?
 自分でもよくわからないが、やはり、戦争を戦争の当事者というかインサイダーから描いた作品を読まなければ、その戦争の公平な評価は出来ないと思ったこともある。
 私は第二次世界大戦以前のことは同時代人として知らない。
 朝鮮戦争も幼すぎて同じく知らない。
 私が関心を持って進行中の戦争を観察したのは第二次ベトナム戦争(米軍参戦)からだ。
 これも謀略宣伝戦がひどく、何が真実かわからなかったが、南ベトナム解放戦線(ベトコン)が実は存在せず、北ベトナム軍そのものだったということが、サイゴン(現在ホーチミン市)陥落後、初めてわかって以来、私は宣伝戦に興味を持った。
 南ベトナム解放戦線=北ベトナム軍だということは、サイゴン陥落前も米軍関係者が何度となく言っていたとかすかに記憶しているが、私はむしろ「ベトコンどもに恨みはねえぜ」と言って徴兵拒否したムハマド・アリ(カシアス・クレイ)の言葉などを賛美していた。
 私もかなりの反米反戦主義者だったのだ。
 そういう苦い経験から、自分の思想信条が戦争している当事国の様々な勢力から、謀略や宣伝に利用されるものであることを知った。
 事実は一つだが、真実は関係者の数だけあることは、映画「羅生門」(黒澤明監督)でよくわかっているつもりだったが、事実そのものも真実同様にあやふやなものだとはうぶなことに知らなかったのだ。
 日本にも大いに関係のあった湾岸戦争、9.11同時多発テロ、対テロ戦争としてのアフガン戦争、イラク戦争とベトナム戦争の時以上に戦争当事者たちからの謀略宣伝戦はすさまじかった。
 今日、これらの戦争で、我々が定説であるかのように考えている様々な言説は、果たして真実なのだろうか?
 真実が無数にあることを承知の上で言うのだが・・・。
 自分がその戦争に参加していない以上、自分なりの真実を見つけるためには、こういう戦記ものの証言を多数読み聞きするしかない。
 アフガン戦争では、「陸軍尋問官」と映画「グアンタナモ 僕たちが見た真実」、「アフガン たった一人の生還」(映画「ローン・サバイバー」)と「マイケル・サンデル ハーバード白熱教室」などで、加害者、被害者、戦闘当事者、無関係な第三者たちの意見を知った。
 湾岸戦争の時に日本が支援金を130億ドルも拠出したのにクエートから何の感謝もされなかったことへの不満をある人がイラクへ行く米兵にぶっつけたところ、1ドル100円として1億3千万人の国民一人当たり100ドル拠出したことになるのだが、「100ドル払えば戦争に行かなくて済むなら、オレだってそうするよ」と言われた。
 われわれ日本人やマイケル・サンデルの教室にいたハーバードのほとんどの学生は、金で兵役忌避資格を買っていながら偉そうなゴタクを述べているに過ぎないのだ。
 既に志願制になっていた米兵の心情というのは、われわれのそれとは全く違っており、われわれが単純に馬鹿にしたり、批判したり出来るものではないのだ。
 そして、このイラク戦争。
 戦前戦中戦後の当時、国会でも巷でも日本国民がだいたい反米派と親米派の二つに分かれて、大いに議論を戦わせたことを覚えておいでだろうか。
 私はその議論を親米派的に戦わせながらも、もう一つ違和感を感じていた。
 あたかもそれが定説であるかのように繰り返し繰り返し語られる諸々のこと、それは果たして本当にそうなのか?
 イラク戦争関係の映画は、そんなに多くは見ていないが、この「アメリカン・スナイパー」、「ハート・ロッカー」、「デビルズ・ダブル」くらいだが、ウダイ・フセインの影武者の告白を基にした「デビルズ・ダブル」はともかく、他の二つは壊れていく、あるいは既に壊れている米兵の心象風景を描くことに力点が行っていると思う。
 本の「アメリカン・スナイパー」のラスト付近で、そのザ・レジェンドとかラマディの悪魔とか呼ばれたスナイパー・クリス・カイルが述懐している言葉だが、「SEAL(アメリカ海軍特殊部隊員)になることは、暗黒面(ダークサイド)に落ちることだ。」と言っている。
 もちろん、この暗黒面とは、映画「スターウォーズ」のダース・ベイダーが落ちていった道と同じだろう。
 クリント・イーストウッドの映画はそういう基調で作られているように思う。
 しかし、クリス・カイルは、またもこう言っている。
 「後悔はしていない。もう一度やってもいい。」と。
 また、彼の作った会社のスローガンは、「”君のお母さんの教えには反するが、-暴力が問題を解決する”」だ。
 毛沢東の言葉にも「時にはナイフが事態を切り開く」(映画「小さな兵隊」J・リュック・ゴダール監督)とあるそうだ。
 我々が自分なりの思想信条を持つことは立派なことだと思うが、政治というのは、それを自らの目的達成のために利用しようとしたりするものでもあるのだということを知っておくべきだろう。
 何事も、メッセージ性があるということは、たいてい興味深くも面白いものだが、反面デタラメだという危険性もあるということだ。
 では。

2018年6月25日 / misotukuri

映画「LOOP/ループ~時に囚われた男~」これはひよっとして大傑作かも度

 積ん読ならぬ積ん録整理第2弾は、映画「LOOP/ループ~時に囚われた男~」(16年、ハンガリー、イシュティ・マダラーズ監督、ディーネシュ・サラーズ、ドリナ・マルティノヴィッチ他)
 よく似た題名の映画が多くて、こういうのに限って愚作揃いなのだが、と思いながら見た。
 https://tv.rakuten.co.jp/content/230442/?sclid=aw_tit_fgn&argument=NS5f42qs&dmai=a5ae1c95ac4231&gclid=CjwKCAjwgr3ZBRAAEiwAGVssnWXp4OqLGgVMRU1jy80G989E0WSPcWgPPbnKFNAUSO9PoX5xY1ZU0RoCEW8QAvD_BwE 
 ハンガリー映画というのは、多分、私も初めてだが、しかし、これはSF映画としてもSFファンなら納得できる出色の出来映えと思う。
 例えば、タイムループがどうして生じたのか、不明としても、仮に時間を遡行するということを考えると、過去の自分に遭遇する可能性は非常に高いわけで、単純なタイムループものではそれを考慮に入れていないか、その可能性を慎重に回避した設定で話が続けられている。
 その点、タイムループものはこれまで何度も見てきたが、これほど複雑かつ正統的で良く出来たものはあまり記憶にない。
 この監督は、この脚本も書いたらしいから、恐らく大変なSFマニアなのだろうと思う。
 ホント、良く出来ている。
 私もこれを見て、入院中に書いた「『映画ドラえもん のび太の大魔境』に異議あり」という書きかけの一文を思い出した。
 入院前に孫と一緒に見ていて、どうにも納得しかねるストーリーに異議だてしようと、夜も寝ずに(昼間よく寝たからでもあるが)頭をひねってショート・ショート風に手帳に書き付けた。
 詳しくは、いずれこのブログで紹介したいと思うが、要するにドラえもんのひみつ道具である「先取り約束機」についてだ。
 まあ、それはともかく、この映画、私はWOWOWの録画で見たのだが、DVD化もされているようなので、タイムループものに興味のある方には是非見ていただきたい。
 たいていは、さあ、これからタイムループするぞと身構えさせられる映画が多いのだが、これはその点いつの間にかタイムループしている。
 そして、はて、これは何回目のループかなと思ってしまう。
 また、ループの始点がだんだん移動していくのも観客を煙に巻いていく。
 ところで、ここらで、ヒント。
 ループの始点はループの終点でもあるのだが、それはどこなんでしょうか?
 ここでのループは主人公の主観的時間の中で起きているようだが、どれかのループでは主人公の恋人もまたそのループに気がついていたりする。
 何番目かの主人公がループを意識的に抜けようとしてわざと違ったことをしてみるうちにループが違えば全く同じ姿形の主人公でも微妙に違っていることに気づく。
 例えば、妊娠した恋人を棄てようとしている主人公とそうでなくて悪の道から足を洗おうとする主人公という具合に。
 この映画のラストがまた素晴らしい。
 恋人が向きを変えた写真の半切れは手品だろうか?
 そして又、主人公は何を見たのだろうか?
 まだ何も知らずにループの始まりに向かおうとしているもう一人の自分なのか?
 ・・・とすると・・・
 いや、それはよく似てはいるが別人なのかも。
 何か、ヒッチコックの映画を思わせる素晴らしい演出。
 絶賛しているが、ホント、これはスゴイと思う。
 途中で、SFからミステリに移行可能なシーンがあったが、もしそれをすれば多分SFとしては収拾がつかなくなっただろう。
 どこかというと、主人公が運ぼうとしているアンプルの密売の黒幕が実は他ならぬ〇〇だったということがわかり、・・・うん、ミステリ映画ならあり得るが、SF映画では欲張りすぎというものだろう。
 では。

2018年6月24日 / misotukuri

映画「インタースペース」のSF同人誌レベル度

 ほぼ一月ぶりに映画を見た。
 題名はなかなか良さげだったのだが、映画「インタースペース」(16年、英、クリス・リーディング監督、マーカス・マクマホン、カラム・オースティン、マック・マクドナルド他)がそれ。
 https://filmarks.com/movies/75616
 1952年のイントロから一気に300年後に飛ぶのだが、まあ、良くある宇宙船のコンピュータの反乱から始まって、断片的に背後に壮大な宇宙文明史的ストーリーがあることはうかがえるのだが、いかんせん演出が言わば同人誌SFレベル。
 こういうSFファンの琴線に触れる選民思想的エスケープSFは嫌いじゃないが、これでは普通の人には何のことかよくわからないだろう。
 ホント、クソSF映画だが、部分的には独創的ではないにしても、色々と魅力的で面白い。
 私は、まあ、ホント、嫌いじゃない。むしろ、好きな方かな?
 C級SF映画ファン必見の一作だ。
 では。