コンテンツへスキップ
2019年3月22日 / misotukuri

「一等兵戦死」(完全復刻版)を読んで思ったこと

 一昨年から「Y字の会」という小さな読書会に参加している。
 そこで取り上げられる小説は、徳島に関連した小説ばかりで、私などそれまで読んだことも、手に取ることもなかった作品ばかりだ。
 同人誌の域を出ないローカル文芸もあればベストセラー・ミステリーもあるし、歴史小説や芥川賞受賞作もある。
 私は昔SFの同人誌に参加していたことがあり、今回もその縁で誘っていただいた。
 3月の課題図書は「一等兵戦死」(松村益二著)だった。
 著者は、裏表紙の著者略歴を抜粋して紹介すると、昭和12年支那事変に応召、負傷して、昭和13年応召解除、同年その体験を小説にまとめた「一等兵戦死」が同年上期の直木賞の候補になり、昭和19年には従軍記者としてビルマ戦線に派遣、昭和21年復員。その後は、徳島新聞編集局長、徳島日本ポルトガル協会理事、四国放送代表取締役社長などを歴任、昭和59年腎不全のため享年70歳で死去された人である。
 もちろん、私は著者のことを知らなかった。
 だが、同じ徳島県人ということで、過去に何度か接点はあったかもしれないが、記憶にない。
 ということで、ほとんど先入観らしきものを持たずにこの小説を読んだ。
 戦争体験のない戦後世代の私などがこういう戦記小説を読むと、平凡だが、やはりその歴史的事実の重みに圧倒される。
 これは昭和12年の支那事変に応召されて、戦闘中負傷した作者の体験を元に書かれたものだが、どこまでが記録で、どこからが創作かは判然としないが、事実と大きく異なるものではないと思った。
 支那事変と言うのは、今では日中戦争と呼ぶらしいが、ようするにあの(幻の)南京大虐殺事件があったという戦争だ。 
 私は昔、徳島県の傷痍軍人会の総会の後の懇親会に何度か参加させてもらったことがあり、幹部の方々にはこの支那事変で傷痍軍人となった人も結構いて、酒席のことでもあり、いろいろと戦時中のきわどい話も聞かされた。
 その時の詳細は覚えていないが、支那事変についての話はこの「一等兵戦死」の内容とほとんど全く同じで、これは主人公が同じ徳島の連隊(徳島第43連隊)だったということもあってだろうが、この小説に出でてくる支那兵の話は何度か聞かされている。
 今の多くの人々はこの小説を読んで、これは学校などで聞かされていた話とまるっきり逆ではないかと戸惑うかもしれない。
 いわばこれは敗者の側から見た歴史の真実で、私などまだ当時から100年も経っていないというのに、もう既に過去に分岐したもう一つのあり得た平行世界の出来事のように思える。
 だが、これはSFでも歴史小説でもない。
 本当はどうだったのかという厳しい検証をすることもなく、勝者の声高に主張する説(正しい歴史認識なるもの)を受け入れ、それが通説からやがて定説として受容され確定されて行くという、まさにそういう歴史というものの形成過程の中にある現在の我々のパラダイムの虚構性を暴くものだ。
 ところで、現実に歴史的事件を直に体験した著者は、このことを本当はどう考えていたのだろうか?
 今回の課題図書がこの「一等兵戦死」だと知らされたとき、正直言って私はどうせ昔の軍国主義によいしょした戦意高揚物だろうと思い、さほど興味を惹かれなかったが、手に取って帯の宣伝文句を見てGHQの発禁文書とわかり俄然興味がわいた。
 発禁本というのは、時の政権を握る支配者の体制維持に都合の悪いことが書かれているからそうなるわけで、それを読まずしてどうしてまともな歴史が語れようか。
 焚書坑儒は秦の始皇帝だけじゃなく、似たようなことじゃなくて宗教がらみでは、現代でも現実にあるわけで、そういう発禁本を持つのはしばしば生身に危険だが、読まずに過ごすのはこれまた精神の衛生上よろしくない。
 それで読み始めたわけだが、読後は、この小説が戦後GHQによって発禁処分を受けたのは当然だと思った。
 なぜなら、このように内省的で反戦的な内容の小説が当時の軍国日本の最中の時代に直木賞候補になったというだけで、これはあまりにも不都合な真実すぎるではないか。
 これから作り上げていく、いわゆる「戦後パラダイム」に合わない。
 もちろん、戦闘行為中の暴力描写は抑制されたものだが確かに書かれているし、そのブラックユーモアみたいなことも書かれている。
 しかし、これは例えば、「アメリカン・スナイパー」などを読んでもこの種の事は最前線で戦う兵士の間ではザラにある話だ。
 それを外国人が言えばブラックユーモアで、旧日本軍の兵士が言えば単なる残酷表現と言うのはバランスを欠いたものの見方だ。
 それにしても、GHQの関係者がこの小説を果たして実際に読んだかどうかは疑問だが、中には日本文学に造詣の深い人達もいたわけだし、仮に読んだとしたら、日米開戦直前の数年前に既にこのレベルの精神的自由が日本に存在していたことを知らしめてはならないと判断したのだろう。
 恐らく、現代のネット検閲と同じで、危険語のキーワードで、機械的に排除して行ったのだろうとは思うが。
 以上は、読後感想の前置きのようなものだが、さて、中身の検討に入っていくと、まず、これは形式で言うと、「唐突な戦死」というモチーフでショート・ショートを連ねた作品で、日記から起こした随想を元に小説化した物だろう。
 だいぶ前に、「戦死」ではないが、「殺人」で同じようにショート・ショートを連ねた作品を読んだことがある。
 「ナイトピープル」三部作(バリー・ギフォード、文春文庫)だが、主人公だった登場人物が次のショート・ショートであっさりと殺されるという繰り返しを読んでいる内にその奇妙な不条理感に魅せられていったのを覚えている。
 この「一等兵戦死」は、発表された年代も違うので、手法的にはそこまで洗練されてはいなくて素人っぽいが、作者の意識にあったのは、多分、アルフォンス・ドーデの「風車小屋便り」とか「月曜物語」などの戦場版「印象主義」ということで、「支那の戦場から」とでもいう感じで戦死というものの不条理をモチーフにショート・ショートを組み合わせてみたということではないかと思う。
 著者は文化学院文学部卒で、徳島日日新報社を経て応召前は毎日新聞社の社員だったことから、文学の教養があるインテリで、レマルクなども読んでいたことをうかがわせる文章がでてくることから、まだ支那事変終結直後のこと故、抑制的に書いてはあるものの作品のトーンとして「西部戦線異状なし」を意識しているのは確かと思う。
 この作品は、この「戦死」という「不条理」に立ち向かう様々な人間のドラマを紹介し、そこで得た教訓というか見解というを印象主義的に語っている。
 これを整理すると、1 外部から訪れる死の不条理さ、2 称えられるべき生き方(死に方)、3 納得を求める人間の本性 ということであろうかと思う。
1 外部から訪れる死の不条理さ
 その人の今進行中の人生ストーリーとは何の関連もなく、唐突に存在が打ち切られてしまうというのは、最近のTV犯罪ドラマの冒頭でよく使われる手法だが、それは戦場で繰り返し現れる突然の死そのものでもある。
 そういうのを見るにつけ、我々だって「一瞬先は闇」なのだということを思い出させてくれるが、それが日常的に意識されるのが戦場。
 平和な時代の我々の感覚から言うと戦場での人間はとてつもなく非日常的な時間と空間を生きているように思う。
 その時空間では、死亡率は高い。それはサイコロを振るように単に確率の問題として兵士の身の上に降りかかってくる。
 その個人が、良い人間だったか悪い人間だったか、どのようにそれまで生きてきたかなどと言うことは関係ない。
 それまでの生と突然外部から訪れる死の間には何の因果関係もないのだ。
 どう生きようと無関係に死は訪れるというこの本質的不条理さが取り巻く環境で我々は、どうあるべきか。
 今の読者には、この小説で描かれている「戦死」する戦友たちは、皆人間味があって良い人間ばかりというのが不満かもしれないが、昔は各県毎に連隊があって、当時こういう小説を書けばすぐに「ああ、あいつのことだな」とわかってしまうことから、醜いことは書けないという事情もあったと思う。
 しかし、一方、小説作法的には、醜い事をするような死んで当然の奴が死ぬのだから、因果応報的な通俗になり、何とも言いようがない「喪失感」というのが湧いて来ないことから、これで良いと思う。
 良い人が突然に死ぬからこそ「喪失感」が湧くのあって、「浦島太郎」が意地悪で嫌な人間だったら、玉手箱を開けていっぺんに白髪の老人になってしまったら、「ざまあみろ。せいせいした」で「喪失感」も何もありゃせんじゃないか。
 この中の「ボクの参戦手帳から(2)」の「親ごころ」は、七歳のひとり娘からの手紙を大事に読んでいる中年兵の話だが、「私(=作者)」がそれを見せてもらうと、そこには「お父さん、御元気ですか。お隣りのよし子さんのお父さんは、名誉の戦死をしました。お父さんも、名誉の戦死をして下さい。と書いてあった。」とあった。
 これを自慢の娘だと言って見せる大正9年兵のエピソードの下りを、今の人たちがどのように理解するかだが、「あ~あ、この子は軍国主義教育に洗脳された哀れな子で、それを心なくも父は自慢して見せている」ぐらいにしか理解できないのではないか?
 あるいは、軍の検閲(あるいは出版社編集者の自主規制)で、そんなこと言ってもないのに白々しくも戦意昂揚小説ということで作者は嘘を書かされているとか。
 そうではないのだ。そんな単純なものではない。
 戦争という不条理が日常的にある時代の人間の感覚は、戦争なんて他人事の時代の人間にはわからない。
 これは、戦場に赴いた人間の生き方(死に方)にも関わってくることなのだ。
 ついさっきまで隣でブラックジョークを飛ばしていた戦友が、音も無く飛んできた一発の流れ弾で突然倒され死んで行くという不条理が日常の中で、人間はどうあるべきかを達観している人たちの生き様(死に様)をこの小説では描いているのだと思う。
 だが、それこそ勝者の歴史(正しい歴史認識)に洗脳された世代の人間には何を言っても無駄だと改めてわかった。
 軍部が「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」(万葉集)を学徒動員の宣伝文句に使ったという事実はあるが、それを文字通りの意味で受け取るインテリなんて、当時でもいたわけないだろうとまでは言わないが、いたとしたらお笑いだ。
 この小説では時代的に当然のことながら、政治を語ることもなく、神や仏に祈るなんてシーンも一つもないことから、作者は別の解を求めていたのだろう。
2 称えられるべき生き方(死に方)
 そこでこの戦死で終わる様々なショート・ショートのオムニバスを通して主役の人物の共通点をさぐると、見えてくるものがある。
 それは、作者が、イイネ!と思った人間としてのあり方ばかりを紹介しているからでもある。 だが、これらはみな絵空事だろうか。
 彼らは、もはや生きて帰れる望みは万に一つもない絶望的な状況下にある中で、何故、最後まで皇軍の兵士としての本分を尽くそうとするのか。
 もちろん、そこには功利的な選択としての「名誉の戦死」を取るしかないということもあろう。
 しかし、そういう不純な動機だけではないと思うのだ。
 どこかで共に戦う「仲間の視線」を背中に意識している。
 こういうのを読むと、日本人の社会は恥の文化(「菊と刀」ルース・ベネディクト)というが、まさにそうなんだなと思う。
 その弱点が後に日本を負けるとわかっている戦争を仕掛けさせ敗北に追い込んだのでもあるが、未だに日本人は自らのそういう美意識(価値観)について自己分析が出来ていない。
 昨今、世を賑わした忖度にせよ不正統計問題にせよ、根っこは同じなのだ。
 山本七兵の本だったか、捕虜となった日本兵を尋問した米軍の尋問官が驚いたのは、例外なくぺらぺらと質問に答えることだったと何かで読んだ記憶がある。
 日本人の社会は恥の文化で、捕虜になるくらいなら自決しろと教育されているから、さぞかし抵抗が強く、拷問しても効き目がないだろうなと思っていたら、まるっきり逆だったと言うのだ。
 私はこれを読んだとき、ホントかなと思った。
 しかし、今なら分かる。
 捕虜となった日本兵は、捕虜となった時点で、皇軍の兵士として生きるよすがを失ったのだ。
 所属するムラを失ってしまった日本人にそれまでの恥の意識は跡形もなく雲散霧消える。
 誰とは言わないが在職中はムラの掟に忠実に頑張ってきたが、いったんクビになると、本音をペラペラ喋りまくって、どうして在職中にそういうことを言わなかったのかと批判される人が今でもいるが、それとまったく同じだろう。
 この自らの行動を規制する「恥」(美意識・価値観)の源泉が何なのか知ることは大事と思うがそれに気づく人はまれだ。
 だが、それが時代の限界に囚われた「恥の文化」だとしても、それを最期まで突き詰めながら生きる姿には時代を超える感動がある。これは多分、ストイシズムだな。
 「恥の文化」は一方でストイシズム的側面を見せ、もう一方では柔軟な功利的現実主義の側面を見せる。
3 納得を求める人間の本性
 語り手の「私」が疑問を口にしてその解答を得ていないからといって、作者がそれを知らなかったとは限らないものだ。
 だが、この小説でも何カ所か疑問のままにしていたり、正解かどうか証明していないところがあるので、自分なりの解読をしてみたが、ここでは知性に関することでもあり、長くなるので紹介するのはやめておこう。
 いずれにしても、異質な世界での異質な見聞について、どうしてそうなるのかを求めるのは、如何に早く現象の背後にある因果関係をつかむか(それを知能という)によって自己の生存が左右されてきたことからくる人間の思考というものの「習性」だろう。
 人間は現象と現象の関係性を見いだして初めて「ああ、そうだったのか」と得心する。
 それが、因果関係か相関関係かに関わらず。
 そして、その見いだした関係性がまるっきり幻影でないとは言い切れないことをポスト・モダンの世界に生きる現代の我々は知っている。
 この時代の作者がどうかは不明だが・・・
 この小説を読んで、戦争がある日常の当時と現代の今とでは、共通点もあるが、やはり実態においても意識においても時代が違うという思いを新たにした。
 これは、「Y字の会」で感じたことで余談だが、私と同世代でも中越戦争やイライラ戦争など知らなくて湾岸戦争の経緯についても記憶があやふやな人達がいることにちょっとショックを受けた。

2019年3月19日 / misotukuri

スペンスVS「ガルシアの夢」の結果にため息をつく

 去る3月16日、米・テキサス州アーリントンのAT&Tスタジアムで開催されたボクシングIBF世界ウェルター級王者エロール・スペンスJr、24戦全勝(21KO)に、4階級制覇のWBC世界ライト級王者マイキー・ガルシア、39戦全勝(30KO)が挑んだ一戦は、スペンスJrが3-0の文句なしの判定勝ち(ユナニマス・デシジョン)を収めた。スコアは、120-108、120-108、120-107のフルマーク。
 こういうニュースには、ボクシング・ファン以外興味もないだろうが、ここで注目すべきは、ウェルター級王者にそれより2階級も軽いライト級王者が戦いを挑んだというところにある。
 これは対戦前から人間社会のというより動物世界の自然の摂理への挑戦を象徴しているような試合という意味で興味深い一戦だった。
 格闘技スポーツでは、体重別に階級を設けて戦うことが多いが、それは「小男は大男には勝てない」というわかりきった事実があるからだ。
 古代ギリシャのオリンピックでのレスリング競技でもそういうことから、レスラーたちは少しでも体重を増やそうとして食べまくり、今で言うところの大相撲の力士のようになっていたという。
 更に、太古の恐竜が隆盛を極めた時代、映画「ジュラシック・パーク」などで人気のヴェラキラプトルが如何にずる賢くて凶暴でも、肉食恐竜では最大のティラノサウルスには勝てなかったように大きさと強さというのは比例していたのだ。
 弱肉強食、これは今日の現代人間社会でも、同じことが言える。
 理不尽なことを言っていても結局声の大きい者が勝つし、資本家が労働者を支配し、それをより大きい権力者が支配する。
 権力者とは、暴力を振るうことが許されている者という意味で、最大の暴力機構である軍隊を命令一下自在に動かせる人物のことを言う。
 ただ民主主義国では、通常、その権力の源泉を国民の信託するところに置いている。
 そんな政治経済の話でなくとも、例えば入試にしても、如何に公平にしても、学力の偏差値の低い子は偏差値の高い子の多い学校には入れないという事実がある。
 ここまで書けば、おわかりのように、小男であるガルシアが大男のスペンスに挑戦するというのは、そういう常識への挑戦であるということだ。
 ボクシングの世界では、過去にそういう例がないわけではない。
 むしろ、何年かおきにそういう挑戦をするスーパースターが出てくる。
 最近では、まず、ロイ・ジョーンズJr、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、マニー・パッキャオ、フロイド・メイウェザーJrなどはそういう階級の壁を何段階も乗り越えた偉大なファイターだ。
 彼らに共通するのは、天性のテクニックは元より、適正体重の階級ではずば抜けたパンチ力と、上の階級でも衰えないスピードだ。
 特に体重を増やすほど、スピードというのは落ちるもので、階級を上げると、その程度のパンチ力やスピードの持ち主はざらにいるようになり、天才変じて凡庸なファイターになってしまう。
 ユニークなヒット商品を開発した小さな会社も、次第に事業を拡大し大きくなって世界的な大会社になったら、いつの間にか昔のブランドで売っている平凡な大会社になってしまい、やがて、大きな損失を出して、倒産。
 拡大しすぎた各事業分野を切り売りして、撤退し、ブランド名だけ残した元の小さな会社ごと他の大会社に吸収されるというのは経済社会ではよく見られる風景だ。
 恋愛でも同じことが言える。
 民主主義の時代だから恋愛は自由だと言うことで、不幸で極貧の片親家庭で育った映画「太陽がいっぱい」の主人公のリプリーみたいな青年が、よりにもよって引っかけた相手は超エスタブリッシュメントのお姫様だった。
 このお姫様、恋に狂って、自分の母親も下層階級の出であったことから、どうして彼じゃいけないのと泣いて訴えるが、親たちも誰もそれに答えられない。
 せいぜい、あのお嬢様を見なさい、由緒ある家柄の立派な人と婚約なさったじゃない、あなたはご自分がどういう立場においでかよく考えなさい、とにかく今あなたは騙されているのよ、というぐらいしか言えない。
 この「誰もが皆知っている」欺瞞に満ちた社会の裏で動いている自然の摂理は、美しい夢を追いかける者には直視するに耐え難く、階級の壁に挑戦するガルシアのような天才が現れると、ついつい、わかっていながら肩入れしてしまう。
 今回は猫がトラの子供になぶられるようにあしらわれたが、いつかまたそういう常識の壁を乗り越え、ぶち破る超天才が現れることを期待して、大きなため息をつこう。
 では。

2019年3月15日 / misotukuri

映画「凍える追跡」のラストに?度

 昨夜、WOWOWで映画「凍える追跡」(17年、仏・ベルギー、クリスチャン・カリオン監督、ギョーム・カネ、メラニー・ロラン他)を見た。
 別れた元妻から「息子がいなくなった」という電話を受けた元夫は仕事もそのままにあわてて現場に駆けつけたが、そこは林間学校で、7歳になる息子は失踪前夜、雪の積もった野外キャンプのテントにいたが、翌朝、所持品を残したまま、ただ布団と共に消えていたという。
 元夫は、警察から元妻と別れた事情など、さんざん事情聴取を受けたあげく、「息子さんは何者かに誘拐されたものと思われます」と言われる。
 誘拐にしても、身代金要求もないことから、息子はもう既に殺されているのではないかという心配に耐えきれない元妻に「あなたと別れたからこんなことになった」と愚痴られるが、元妻には新しい恋人がいて妊娠しており、それを息子は許せないのだが、それこそ昔を今になすよしもがなで、もうどうしようもないことだった。
 元夫は遅々として進まない警察の捜査状況にいらだち、担当刑事に「捜査は警察に任せて、あなたは家でじっと待っていて下さい」と言われたにもかかわらず、自分で息子の捜索を始めたのだが・・・というお話。
 ミステリではよくある設定だが、もしも私が同じ状況に置かれたとすると、このどうしようもなさ感というか、解決不能感で打ちのめされるだろう。
 私はこの映画を見終わってから、自分がこの元夫になったつもりで事件の検討をしていて気がついたのだが、実に人間関係とか誘拐犯罪自体のこととかの状況説明が巧みで、よく出来ていると思った。
 私のつたない映画のイントロの紹介だけで、誘拐の目的は不明ながら、行きずりの犯行ではなく、ターゲットが特定されていたことがわかるし、映画のシーンの中で具体的に照明もない夜間にターゲットを確認するにはどうするか、いわゆるハウダニット(How done it)を考えると元夫が探している手がかりというのが何であるのかも理解できる。
 見ている間も、これはスゴイ傑作だなと思っていたのだが、残念ながら、最後でずっこけた。
 こんな終わり方はないだろう。
 あまりにも唐突すぎて、夢か現実か、結局、何がどうなってどういうことだったのか、もう少し説明しないとわからないのでは?
 私はやっぱり現実のことと思うが、元夫の夢という可能性も捨てきれない。
 私は同時録画をしていたので、夢か現実か、ラスト数分を3回繰り返し見たが、よくわからなかった。
 フェイドアウトする前に、元夫の首筋に拳銃を突き当てたのが、警官なのか、追っ手の犯人一味なのか。
 多分、救助にきた警官と思うが、あのいかにも現実感の薄いラストは何なのか?
 元夫は、刑務所に入れられるのか?何故?どういう罪になるのか?
 誰か見た人説明してくれー!
 では。

2019年3月10日 / misotukuri

田中恒成 VS 田口良一待望の一戦を予想する(結果付き)

来週の3月16日(土)、WBO世界フライ級タイトルマッチ、田中恒成VS田口良一がある。
まさにファン待望の一戦。
共にボクシング・ファン周知の人気ボクサーであり、データ的なことはもういいのだが、一応、参考までに述べておく。
田中:23歳、オーソドックス、身長164cm、リーチ161cm、12戦全勝(7KO)、KO率58.3%、三階級制覇王者
田口:32歳、オーソドックス、身長168cm、リーチ170cm、32戦27勝(12KO)3敗2引き分け、KO率37.5%、元Lフライ級統一王者
田中は、今をときめくパウンド・フォー・パウンド、ワシル・ロマチェンコに並ぶ世界最速三階級制覇達成の現王者であり、田口はWBA元ライトフライ級王者で、7度防衛し、IBF元同級王者ミラン・メリンドを下し、WBA・IBFの統一王者になったが、ヘッキー・ブドラーに敗れタイトルを失い、これが階級を上げての再起第一戦。
両者の過去の対戦相手を見ると、共に一流どころが多く、文句ない戦績だ。
試合数は田口が多いが、このレベルになると、経験は関係ない。
田中について、テクニックという点では、これまでの相手を見る限り、はっきり負けていたのはビック・サルダールだけだが、不安要因は、それほどでもない相手にでもダウンを結構喫していることだ。
これは、打たれ弱いのか、防御が悪いのか、気が抜ける瞬間があるのか、それらが複合しているのかだが、多分、体型的不利をスピードで補っているからだろう。
更に木村翔戦の終盤でも見られたが、ややスタミナに問題があるように思う。
ただ、勝利への執念というか、打たれてもダウンしても逆転勝利する精神力がスゴいね。
一方、田口についてだが、前回のヘッキー・ブドラー戦は、惜しい試合だったが、私は田口が負けそうな予感がしていた。
その前の試合でミラン・メリンドを破って統一王者になったという達成感で、何かもういいやというような雰囲気が漂っていたからだ。
本人も王座を7度、まさかここまで来るとは思わなかったほど防衛したし、統一王者にもなれた。
もう歳も30代に乗ったし、ボクサーの肉体的な限界といわれる35歳が見えてきて、結婚・引退・第二の人生という考えもちらつきだして、ボロボロになるまでボクシングやるか?とか思い始めたのではないか?
ヘッキー・ブドラーがミラン・メリンドよりやりにくい相手ということはわかっていただろうし、こんな集中力を欠いていては負けるとわかっていても、イマイチ燃えてくるものがなかったのでは?
今回も、何かを証明したいという戦う意義を見いだせているかどうかが、一番の不安要因だ。
何かファンの手前、田中からの対戦ラブ・コールにしぶしぶ応えているだけではないのか?
もし、そんな感じだと、この試合は危険だ。
若くて上り調子の田中にKOされてしまう。
そうではなく、減量苦から多少解放されて、本来のパワーも出せるようになり、もう一度、世界の頂点に立って、まだまだやれるということを証明したいという意欲に満ちてきているなら、これは激闘の好試合が期待できるだろう。
田口の打たれ強さは、井上尚弥がKO出来なかったことでも証明済みで、スピードも連打も田中に劣らない。
問題は、スロースターターであることと、体格的有利さを生かすアウトボクシングより、インファイトを好むことだ。
スロースタートでなかったのは、世界タイトル戦ではロベル・バレラ戦くらいのもの。
あの時は、やれば出来るじゃないかと思ったが、その後はやっぱりスロースタートに逆戻り。
田中が1Rからがんがん行けば、田口もこれに応戦し、がんがん打ち合うという展開になれば、田口の眠っていた能力が目覚めて面白い打ち合いが見られそうだが、田口がいつものスローなスタートで様子見をしていると、ブドラー戦の二の舞になってしまう。
田中がポイントを奪うことだけに徹すれば、田口は容易には勝てないだろう。
しかし、田中もただ勝つだけでなく、強さを証明するためKOしたいだろうから、多分、打ち合いに応じるだろう。
何かホルヘ・リナレスVSワシル・ロマチェンコの試合に似てくるんじゃないかな?
田口がリナレスで田中がロマチェンコだが。
気になるのは、田中の打たれ弱さと田口のモチベーションの維持。
久しぶりに、優劣を><で比較してみよう。
年齢:田中>田口・・・若い方が良いだろう
身長:田中<田口・・・4~5cmの違いだが。
リーチ:田中<田口・・・9~10cmの差は拳一つだが結構大きい。
スピード:田中>田口・・・リーチの不利を帳消し
攻撃技術:田中=田口・・・共にコンビネーション、ボディ打ち互角
防御技術:田中<田口・・・田中はガードが低くかわしきれない時がある
モチベーション:田中>田口・・・ラブコールし続けている田中が高い
パンチ力:田中>田口・・・KO率の差ほどではないが、田中の方が決める力がある
耐久力:田中<田口・・・井上尚弥のパンチに耐えた田口の方がある
回復力:田中>田口・・・打たれもろいボクサーは回復も早い
根性:田中=田口・・・田中の根性はスゴいが、田口もモチベーション次第で根性をみせる
ペース:田中>田口・・・田口はとにかくスロースターターでペースをつかみきれず苦労する
戦術:田中=田口・・・共にあらかじめ組み立てた戦術があるようには見えない
以上、田中>田口が6,田中<田口が3、田中=田口が3で、田中:田口=6:3の田中の勝ち。
まあ、あくまで単純でおおざっぱな比較だが、実際の差はわずかで、恐らくこういうことでは勝負は決まらないと思う。
試合中の拳の骨折や足や膝の捻挫、バッティングによる出血などアクシデントの他にも、試合前に風邪を引いたり、トレーニングのしすぎによる体調不良、減量の失敗などが大なり小なり必ずある。
まあ、そういうのも含んでのボクシングなのだが。
田口がここに来て疲れたので練習を2日休んだというのは、気がかりな情報だ。
これをどう見るか?本当か?
まあ、田口にプラスになることではないな。
ということで、予想は、ズバリ、田中の中盤KO勝ちとしておこう。
中部で木村翔戦みたいな田中の判定勝ちだけはやめて欲しいな。
<結果速報>
田中の3-0(117-111×2、119-109)の判定勝ち。
私の採点も、116-112で田中の勝ち。
KOはならなかったが、ほぼワンサイドの勝利だった。
やはり、スピードとパンチ力の差が出たと思う。
中でも、田中の左ボディー・ブローは、スピードがあって、いかにも強そうだった。
だが、試合後の顔を見ると、意外にも打たれまくった田口の顔は何カ所か傷はあるものの総じてきれいなものだったが、勝利者の田中の顔の腫れの方がひどかった。
これは田口の防御が巧みだったということか。
田中の課題は、防御だな。
3Rかな、あわやダウンというシーンがあったが、防御の癖がついてないから、フッと一瞬気が抜けたときにもらってしまうのだ。
田口は、割と無理して序盤から飛ばしたが、それほど身体が動いている感じではなかった。
やはり、階級を上げてダイレクトでタイトルマッチは少し無理だったと思う。

2019年3月5日 / misotukuri

映画「クロノス・コントロール」のこれもAI(愛)なのか度

 先ほど、映画「クロノス・コントロール」(17年、米・スイス、ロバート・コウバ監督、ジョン・キューザック、ジュリアン・シャフナー、ジャニーヌ・ヴァッカー他)を見たところ。
 クロノスというのは、ギリシャ神話に出てくるオリュンポスの神々に先行する巨神族(ティーターン、タイタン)の中で、2番目に位の高い神で、1番目の父ウラヌス(天を意味する)と母ガイア(地を意味する)の子で、父を殺して権力を手にしたが、自らもわが子に殺されるという予言を受けて、妻のレアー(レイア)が産んだ子供を次から次に飲み込んでしまったが、最後のゼウスだけはレアーが偽って石を飲ませたため助かり、予言通りそのわが子ゼウスに殺されてしまう。
 この話の中に、どこかで見聞きしたことがあるようなお話の断片が数多く見られると思うが、それはだいたい、順序が逆で、この話が元になっているのだ。
 しかし、それも先行するシュメールの神話が伝播したものの一ヴァリエーションではあるのだが・・・
 起源的には、エジプト、シュメール、インダスという三つの文明は同時代と見てよく、どれが先とも言いがたい。
 まあ、それはともかく、この映画は、AIが発達し、人類の75%がロボットを所有するようになったが、戦争は益々過激になり、収拾がつかなくなった未来で、愚劣な人類に絶望した科学者(ジョン・キューザック)が、クロノスという超AIを作りだし、それに地球のマネジメントをさせようとしたが、クロノスは即座に人類こそが地球にとって一番の癌であると断じ、人類駆除を始める。
 そして、その最後の仕上げにクロノスは、わずかに生き残った人類がひっそりと暮らしているオーロラという夢物語のような理想郷を探し出して破壊するため、一人のヒューマノイドを作り、オーロラを目指して旅をしている少女のいる廃墟となった街に彼を目覚めさせる。
 案の定、超AIクロノスが仕組んだ危機を乗り越えるため二人は協力し、共にオーロラを目指すようになるが、そのヒューマノイドは自分は人間であると思い込んでいたし、自分が作られた理由も知らなかった・・・
 ま、後はおきまりのヒューマノイドと人間との間に愛が芽生え、正体が分かった後も結局あなたは機械じゃない、とか何とか甘っちょろい展開となるのだが、結構最後まで見られたよ。
 どうしてかなと思ったが、少女役のジャニーヌ・ヴァッカー(?)という女優がなかなか表情豊かで、演技がうまいのかな?
 彼女の顔の表情を見ていたいだけで最後まで行った。
 また、ヒューマノイドが精神的な拷問を受けるシーンで、イケメンヒューマノイド役のジュリアン・シャフナー(?)の耳たぶが赤くなるのには、これも芸なのか不明だが、驚いた。
 真剣に考え事をしたり、感情が高ぶると、耳たぶが真っ赤になる先輩がいたが、この俳優の本気度を見たのかも。
 演技もそこまですると、スゴいね。感心した。
 やはり、ジョン・キューザックの出る映画は、大したものでなくても、見せてくれるね。
 では。

2019年3月3日 / misotukuri

映画「ブリグズリーベア」は大人の大人による大人のための童話か?

 昨夜、映画「ブリグズリーベア」(17年、米、デイブ・マッカリー監督、カイル・ムーニー、マーク・ハミル、ジェーン・アダムス他)を見た。
 去年、話には聞いていたが、なるほどいい映画だね。
 これは一言で言うと、「大人の大人による大人のための童話」だ。
 ストーリーは知らない方がいいと思うので、あえて紹介しないが、なかなか多岐にわたる問題点や様々な作劇のテクニックをちりばめた美しい映画だ。
 この映画は、もしも誘拐犯が悪人ではなく本当に善人だったら?というアイデアが先にあったのだろうと思う。
 そういうアイデアのドラマはいくつか見たことがあるし、現実にも赤ちゃんを盗む女性にそういうのはあると思う。
 アイデアとしては前からあって目新しいものではないが、それをこのようなほのぼのとした大人の童話に仕立て上げたのを見たのは初めてだ。
 だいたい、着ぐるみとかぬいぐるみが出てくるいかにも幼児向け映画など見たくも無かったが、まあ、これはそういう幼児向けのTV番組や特撮映画のメイキングドラマと考えれば、現実にそういう作品を作っている人たちにも共通するものがあるんだろうなと思う。
 結構、監督はじめキャストやスタッフなどみんな割と本気なんだろうね。
 私などとっくに堕落していて、くそまじめな「科学忍者隊ガッチャマン」より、おふざけの「タイムボカンシリーズ ヤッターマン」が好きで、後に実写映画化された「ヤッターマン」の深キョンのドロンジョ様にはまいった方だが、恐らく両者は表と裏なんだろうね。
 まあ、それはともかく、最後の劇中劇の映画版「ブリグズリーベア」の上映会が大成功を納めた後、スクリーン横に立っていたブリグズリーベア(これは主人公ジェームズの幻覚だろう)が、パッと消えるのは、何だろう?
 これで主人公とその内なるブリグズリーベアとの別れを象徴しているのかな?
 その少し前に、映画の評判を気にしてトイレで吐いたりするシーンがあったが、私はそこで急に違和感を感じた。
 ジェームズらしくない。そんなことは、以前の主人公なら決して思ったりしなかっただろうからだ。
 恐らく、主人公はいつの間にか少年から大人になっていたのだ。
 もうイノセントじゃない。
 映画版「ブリグズリーベア」を作り上げることが、少年期の総仕上げだったのか。
 「次の冒険でまた会おう」とブリグズビーベアが言っても、多分、もう主人公はブリグズリーベアと会うことはない。
 そして、彼は、映画の成功の喜びに包まれる中で、深い喪失感と郷愁を持ちながら大人になったと気づく。
 よりきれいに洗練された画面の「ブリグズリーベア2」は考えられない。
 それを作ったら、それこそ興ざめだ。それはあのブリグズリーベアとは別物だろう。
 これは映画版教養小説(Bildungsroman ビルドゥングスロマーン)とも、少年期への墓碑銘とも言える。
 あくまでこれで完結しているのだ。
 では。

2019年2月26日 / misotukuri

ビック・サルダールVS谷口將隆直前予想(結果付き)

 今日、ボクシングWBOミニマム級世界タイトルマッチ、ビック・サルダールVS谷口將隆がある。
 あわてての直前予想となったが、頭の中では少し前から予想はできている。
 結論から言うと、ビック・サルダールの判定勝ちだろう。
 谷口將隆の試合は、平成17年の小浦翼とのOPBF東洋太平洋ミニマム級タイトルマッチで見たきりだが、まあ、そう変わってはいないだろう。
 ビック・サルダールは、田中恒成、山中竜也戦で知っているが、両者から共にダウンを奪っている。
 田中恒成の時には6RKOで敗れているが、5Rまではサルダールのワンサイドでどちらがチャンピオンかわからないほどだった。
 まあ、後でじっくりビデオを見ると、押しまくられながらも田中のボディブローが効いており、6Rの逆転KOの伏線はあったんだなとわかったが。
 山中竜也戦では、山中のV2戦だったわけだが、山中はさすがに強く、これは難なく山中の防衛かと思っていたら、サルダールが7Rに痛烈なダウンを奪った後は流れが変わって大差で同王座を奪取した。
 田中恒成の場合は減量苦があって、思うように動けなかったのだろうが、山中の場合は一瞬の隙を突かれたもの。
 とにかく、パンチに決定力がある。
 欠点はやはり、ボディーだろうなと思うが、谷口にそれが打てるかだな。
 谷口は、小浦翼戦で判定負けをしたが(私の採点では谷口が勝っていたと思う)、惜しい試合だった。
 ハードパンチャーの小浦をカウンターで再三棒立ちにしたが、決定力に欠けるというか、小浦をダウンさせるまでには至らなかった。
 無敗でスター性のある小浦をひいきしたとは言いたくないが、あの判定には何か不純なものを感じた。
 しかし、私の採点でもそうだが、特に前半互角の時にはチャンピオンの方に点をつけるとしたもので、それを覆すにははっきりと挑戦者の方が上回らないと行けない。
 その点、谷口はアピール度が足りなかった。
 フィリピンはボクシングの先進国で、負け数は多くても本当に強いのがごろごろいるが、マニー・パッキャオの影響か、皆、パンチを思い切って振ってくる。
 当たれば派手な音を立てるし、見た目も迫力あるが、そういう見栄えのいいボクシングに谷口はどうやって対抗するかだな。
 谷口の武器はカウンターと思うが、その後のコンビネーションを如何に当てるかだな。
 多分チャンスは何度もあると思うが、サルダールのパンチを警戒するあまり、もう一つ踏み込めず、逆に一瞬の隙を突かれ、押し切られてしまうように思える。
 谷口はサルダールのパンチに如何に対応するかよりも、突破口を見つけ、徹底的にそこを突くことだ。
 勇気を持って、ボディを打て。
 それが出来れば、チャンピオンになれるだろう。
<結果速報>
 残念だが、予想通り、サルダールの3-0(118-110,117-111×2)の判定勝ち。
 TV観戦出来なかったので、試合は見ていないが、サルダールはアマ500戦というキャリアを見せて谷口を退けたようだ。
 後日、詳細な検討は、動画で見せてもらってからということにする。
 サルダールには、小浦翼でも無理だろう。