コンテンツへスキップ
2021年12月4日 / misotukuri

腎臓透析歴1年を振り返る-1-

 2020年の12月2日にt通院していたT大学病院に緊急入院していよいよ透析生活に入ることになったのだが、その前にすぐにシャントを作る手術をしなければならなかった。

 わずか一年前のことだが、詳細はもうはっきりとはおぼえていないが、それと平行して胃や大腸それから心臓の検査もした。

 身体中いじくり回されるのは嫌だったが、一度一度死んだようなものだから、痛かろうと気持ちが悪かろうとどうにでもなれと言う気持ちだった。

 検査で胃に少量のピロリ菌と心臓に異常が見つかったのは意外だったが、血液透析に支障が出る程ではなかった。

 血液透析する前には尿毒症の症状が出ていたはずだが、ほとんど自覚していなかった。

 しかし、思い返せば、あれがそうだったかと思うことがあった。

 全身の痒み、食欲不振、身体のふらつき、足のむくみなどだ。

 特に足のむくみは、入院するまではなかったことで、入院して1週間目頃から急にむくみだした。

 利尿剤を飲んで2日くらいでむくみは消えたが、自分の足とは思えないほど膨れたのには驚いた。

 家にいたときにはわからなかった食欲不振もはっきりと自覚したのは、入院して4,5日してからだ。

 だいたい透析食はマズイものだが、それだけではなかった。

 普段から薄味で、好き嫌いのない自分なのに、出される食事の半分食べるのが精一杯なのだ。

 しかし、何がいけないのかはっきりわかった。

 透析食は、生野菜、生フルーツがカリウム制限で一切ないことだ。

 妻が内緒で差し入れてくれたミカンを食べると、ホントに生き返るような思いがしたよ。

 食べる量が半分になったからか、必ず便秘をするのも苦痛だった。

 医者に聞くと、2日出ないのは便秘と言えませんといわれたが、カチンカチンに便が固くなって、出てこないのにはまいった。

 その上、食欲不振で便秘なのに、胃と大腸の内視鏡検査の前に下剤を2リットル飲まないといけなかったのだが、これがまあ想像を絶する苦しさ。

 何とか全部出し終わって、様子を見にきた看護婦が、私の顔を見て、「まあ、げっそりしたわね」と言ったものだ。

 入院生活で一番苦しかったのは、便秘だったことかな。

 腎臓がダメになると、必須栄養素であるリンが排出されないので、それを排出する錠剤を飲むのだが、するとどうしても便秘になるらしい。

 あれこれ便秘薬や軟便剤を変え、一番身体にあった軟便剤を飲むことで、ようやく便秘はある程度改善した。

 入院して10日過ぎて、シャント手術の抜糸も終わり、ようやく血液透析が始まった。

 最初は2時間、翌日から4時間の血液透析で、隔日になった。

 2日目の時だ。

 隣の男性の透析患者だが、初めてなのか、また血管が細いのか、針がなかなか通らず、拷問を受けているような悲鳴を上げ出した。

 私も血管が曲がっているのか、針が刺し憎そうだったが、痛み止めもしているので、耐えられないことはなかったが、その耐えられないような悲鳴が何度も絶え絶えに上がるのにショックを受けた。

 何だ、男のくせに、と思ったが、悲鳴を上げると痛みや恐怖を抑える効果があるのは確かだ。

 また、悲鳴を上げているからと言って、痛みに耐えていないわけではないと思い直した。

 透析室で悲鳴を聞いたのはそれ一度きりだった。

 血液透析を始めると、便秘以外の何もかもが劇的に改善し、お腹が空いていくらでも食べられるようになったし、痒みも嘘のように消え、歩いてもふらつかず、早く血液透析を受けるべきだったと思うようになった。

 1週間程度のトレーニングが終わると、異常なければ退院だが、心臓のエコー検査で異常が見つかり、このまま入院して、心臓の内視鏡検査を受けるか決めることになった。

 内視鏡検査は、多分、翌年になるとのことなので、一旦退院して、退院後の希望病院を紹介して貰うことになった。

 同時に、病院のケアマネージャーが来て、医療費の助成措置や身体障害者手帳の交付申請についてアドヴァイスしてくれ、妻が市役所に行き、手続き等をしてくれた。

 透析には莫大なお金が掛かり、公的な助成措置を受けなければ、とても個人負担は出来ず、尿毒症で苦しみながら、数日で死ななければならない。

 また、血液透析はなかなか体力が要るので、心臓が弱かったりすると、1回ごとの透析のたびに体力を消耗し、やがて透析を受けることが苦痛になるらしく、血液透析をストップして、自死を願う人もいるらしい。

 しかし、血液透析も、5年後の生存確率が50%と言うから、5年の命と考え、出来るだけ、体力維持に努め、透析を受けた後の快適感を味わいたいと思った。

 5年後の生存確率が50%というのは、昔、年代別人口統計の推移を調べたことがあって、だいたい60才を過ぎたら、透析患者でなくても5年後に生き残った割合は50%だった。

 ま、平均寿命が延びているから、もう少し多いのかもしれないが。

 コロナ・パンデミックで一時期死者の数が注目されたが、コロナでなくとも、一日3000人から死んでいるので、原因が何だろうと、全体数が目立って多くなければ、統計的には大したことない。

 幸いワクチン接種がある程度行き渡り、コロナ死者数も減れば、死者の総数は減るはずだが、統計的にはどうなっているのか興味深い。

 今年夏のデルタ株の感染拡大も、弱毒化かワクチンの効果か重症化率や致死率は極めて低く、マスコミが騒いだ割には大したことがなかった。

 ま、全体のことは、どうでもいい。

 コロナ・パンデミックで色々な統計的な嘘が暴かれたのは、面白いが。

 とにかく、そういうわけで、退院することになったが、5日くらい前に急に病室を変わってくれということになって、隣の緊急患者ではない患者用の病棟に移った。

 造りは似ていたが、古くて、少し暗かった。

 巨大な体重計と尿量分析計があって、自分で量らなければならなかった。

 しかし、統計を取ることもなく、何のためにしているのかよくわからなかった。

 とうとう退院する日が来、妻と息子が迎えに来てくれた。

 退院して2日後、紹介してくれた近くのK病院に透析に行くことになった。

 K病院は、親父が前立腺癌の検査手術で入院して以来の訪問だったが、場所も新しく変わり、きれいになって、透析室もT大学病院よりも大きかった。

 スタッフも親切で丁寧だし、透析針を刺してくれる医者も上手だった。

 医者は当時は副院長だったが、半年も経たないうちに院長になった。

 年末まで火木土のペースで午後から通院していたが、一通り検査をしたところ、シャントが塞がりかけているのが見つかり、1月2日にシャントの開通手術を受けることになった。

 T大学病院には、1月8日に心臓の内視鏡検査があり、前後、2泊3日の入院をしなければならなくなっていた。

 透析のスケジュール調整が面倒だったが、K病院の対応がしっかりしていたので、ますます安心感を持った。

ー続くー