腎臓透析歴1年を振り返る-2
T大病院を退院するとき、内科の女医さんが来て、ピロリ菌の検査結果を持ってきた。
わずかだが、ピロリ菌があるが、治療するかと聞かれ、この際、治療が必要なものはすべて治療しようと思い、治療をお願いした。
一週間ほどの投薬でピロリ菌が消えていればOKだと言う。
退院前のT大病院では最後の透析を透析室の部長のK先生が「私がする」と直接穿刺をしてくれたが、1回目何と失敗し、「出しゃばって済みません」と恐縮していた。
退院には、妻と息子に来てもらった。
私が意外に元気そうなので、驚いたようだった。
体調は確かにいい感じだが、まあ、透析前と較べてということだろう。
1月8日には、T大病院では、心臓のカテーテル検査があった。
年末も押し詰まっているので、予定が取れなかったのだ。
その前に1月2日にK病院でシャントの風船手術をした。
まだ1ヶ月も経たないのに、早くも目詰まりを起こしているようなのだ。
手術は簡単で30分ぐらいで終わった。
ヒドイ人になると3ヶ月に一度この手術をしている人がいるらしい。
次は、再びT大病院の心臓内科で心臓カテーテルの検査だが、ちょうどその入院日、K病院での透析の日と重なっていたので、透析を午前中にして貰い、午後、T大病院に入院することにした。
入院の日は、前年の12月の末に予約しておいた。
また息子に送って行ってもらい、午後3時頃、入院手続きを済ませ、勝手知ったる東病棟の5階の病室に落ち着いた。
手術当日、紙パンツが必要とのことで、1枚入りパンツと翌朝の朝食のパン(手術後12時間絶食ゆえ朝食抜きなので)を売店で買ってきた。
若い女性看護師が「下の毛を剃りましょうか」と言うので、「自分でする」と断った。
カテーテル検査は、部分麻酔で約1時間程掛かった。
退院する前に手術医からの説明があり、心臓に行く血管に目詰まりはないが、左心房の収縮が弱く、通常の人の半分くらいだという。
ペースメーカーを入れていた父の遺伝だと思う。
心臓内科のS担当医から月1で通院せよと告げられた。
退院日の土曜日の朝に久しぶりに透析をT大病院で受けたが、女性の看護師以外知った顔はなかった。
退院は、また息子に来てもらった。
再び、K病院での火木土の血液透析の日々が続いた。
患者同士あまり話をすることもなかったが、顔なじみが出来、それぞれの抱える身体上の問題もわかりだし、血液透析中を快適に過ごすコツのようなものも掴めだしたが、日日次第に血液透析を続けることに苦痛を感じるようになった。
火木土の午後、血液透析のため、前後1時間拘束されること、血液透析1時間前に痛み止めのテープを貼り、太りすぎた体重から標準体重を引いて抜く水の量を決め、4時間ベッドの上で腕を曲げたりせず、固定していなければならない。
何より、毎回2本穿刺するのだが、少し痛いのはともかく、こんなに同じ所を太い針で穿刺して良いのだろうかという疑問に襲われる。
また、血液透析の最中、30分おきに血圧を自動計測するのだが、だいたい高くなりすぎるのだ。
自分の心臓で血液を送り出すので、ある程度血圧が高くないとダメなのだが。
しかし、それだけ心臓に負担を掛けているという事だし、ただでさえ心臓に不安がある私には心配な事この上なかった。
血液透析中、カーリングの中継やミュージカル映画のTV番組を見ていると、血圧が下がることがわかった。
あるとき、血液透析が終わり、止血したところ、それが十分でなかったのか、血液が吹き出し、ベッドを汚したことがあった。
そして、その頃、透析を始める前に妻から「わたしも協力するから」と勧められた腹膜透析へのあこがれがつのり始めた。
「緊急避難的に血液透析をし、体調をしっかり整えてから、腹膜透析に移行することも一つの考えです」と外来担当医のA先生が透析病室に緊急入院した私を気遣ってわざわざ病室まで来てくれて慰めてくれたことを思い出した。
そのとき、なぜか、はらはらと涙が流れて仕方がなかった。
自分では意識しなかったが、傍目にはよほどショックを受けていたように見えたのだろう。
そう言えば、最初、私が入院するということを聞いた4才の孫が「じいちゃん、死ぬの嫌だ」と泣き出したこともあった。
「いや、じいちゃんはね、元気になりに入院するんだよ」と言って慰めたものだ。
やはり、初志貫徹で、腹膜透析すべきかなと思い始めたとき、「いつになったら腹膜透析にきりかえるの?もうやめたの」と妻に聞かれて、腹膜透析を決断した。
腹膜透析をするには、また手術をしなければならず、訓練のため1週間から10日入院しなければならない。
腹膜の性能が良くなければ、血液透析を併用しなければならない。
ま、いろいろ大変なので、なかなか決断がつかなかったのだ。
<ー3に続く>